私とは何か(平野啓一郎)

*

久しぶりに息をした。

本当にそんな気分だった。
ここ数年、専門書以外の本がほぼ読めなくなっていた。
Kindleで斜め読みはできるが、ほとんど頭に入ってこない。
記憶に残らないので同じ本を買ってしまうこともあって、基本的にはAmazonで履歴を残しながら買うことを徹底している。

それが、2時間足らずで一冊読み切ってしまった。
途中、夫には「いいところだから読み切るまで帰らない」と連絡した。

感想を聞きたい、と言ってくださる人がいたのでここに残しておく。
(オタクの早口のごとき長文が送られてきたら迷惑だと思うから)

平野啓一郎氏は、作中にある通り、いろいろな文体を持っている。
あまり多く読んだことはない(記憶にあるのは、新聞連載していた『かたちだけの愛』と単行本で買った『マチネの終わりに』である)が、正直統一性のない作家だなと思った。
わざとそうしていたらしかった。

深く息を吸ったのは、おそらく私の古い「分人」たちだ。
彼らは息を吐き切った状態で、干からびてミイラのようになっていたのだと思う。
それらが、息を吸った。
身体が膨らむ感覚があった。

先日、共通の知人について夫と話した折、「そんなことをする人だとは思わなかった。正直幻滅した」と私が発言すると、夫は「その人にもそういう面があったというだけでしょう」と答えた。
読後、ようやくその一言が腑に落ちた。

**

私は、大学生~社会人2年目の間にカウンセリングを通して「文化多元主義」的手法で「分人を統合した」。
これは当時離人感が強く、地に足をつけた生き方をするのには仕方がなかったのだと思う。
あるいは、カウンセラーが意図していない結果だったかもしれない。
その後、私は裏表がほとんどない人間になった。
初対面だろうと他部署の部長だろうと自分がおかしいと思うことはおかしいと言ったし、ややけんか腰で接することが増えた。
おかげで、職場が変わってもいつのまにか誰かに「狂犬」と呼ばれるようになっていた。
そして、精神的にものすごく弱くなった。
最終的に、精神科を受診するに至る。

仕事用(もちろんこれも、直属の上司向け、患者向け、他院医療関係者向けなどの分人の集合体であるが)の分人もプライベート用の分人も同じだったからだ。
常に頭が仕事から離れられなかった。
仕事であった嫌なことをひたすら反芻し続け、憎しみを募らせた。
失敗しているのではと不安は増長し、何かを指摘されると攻撃されていると感じ、完璧でない自分が許せなくなった。

PHSが鳴る。
勇気を振り絞って対応する。
看護師からの報告はすべて私を攻撃しているように聞こえた。
患者の具合が悪いのはお前のせいだと言われている気がした。
怯えを悟られないようにつっけんどんに指示を出す。
電話で終わらせられるはずの仕事ももう一度病院に行かなければと強迫観念がわく。
気持ちはもう行きたくない。身体も疲れている。
PHSを切ると、床にたたきつけ、そのまま悲鳴を上げる。
不安を紛らわすために自らを傷つける。
爪を立てる。髪を抜く。頭を叩く。

PHSが鳴るのが怖くて仕方がなくなった。
すぐに鳴る気がする。すでに鳴っている気がする。
風呂にゆっくり入れない。数秒すると鳴っている気がして脱衣所に出てしまう。
シャワーの音、電気温水器のモーターの音、すべてPHSの音のような気がしてしまう。

夢の中でPHSが鳴り、起きる。

仕事のミスが増え、さらに追い込まれていく。
見かねた他診療科の(ここは今思い返しても不思議だ。同じ診療科の医師は誰も何も思っていなかった)医師に精神科医との面談を設定された。

仕事を減らしてもらった。これも、自分が否定されている気がした。
「仕事のできない人間」という烙印を押された気がした。(そして実際に「人手にならない」と言われた。)

異動してきた経緯を知らない後輩には、「いても役に立たない」と言われた。

早く元の働き方に戻らないと、と思う一方、またおかしくなってしまうかもと思うと怖い。

研修医採用試験で、私が試験官の病院長にさんざんケンカを売った後、もう一人の試験官が「最後に一つだけ」と質問してきた。

「ストレスに強いほうだと思うか?ストレス発散方法は?」

今振り返ると、気持ちを切り替えられるというのは医師にとって重要なスキルなのだと思う。
分人は、悪いことではない。
仕事用分人が肥大化したときは、プライベート用の分人の占有率をあげる必要がある。
働き方改革というのは、もしかしたらこの分人の考え方を導入することも必要なのかもしれない。

***

自分(というのが何なのかよくわからないが)の中の分人の割合を変えること。
嫌いな人はどうしようもないが、嫌いな人用の分人をあまり使わない、というのは自分で決められる。
心理学的には自己効力感というものだろうか。
もう一度分けることによって、少しずつ「自分」に自信をつけていく。

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