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「可愛い」と多様性について


初めに

最近、国民的女性アイドルグループ、3組が選抜メンバーを出しコラボレーションするという記事を見ました。
その記事の写真には選ばれた4人の女性が写っていたのですが、どう見ても端の2人と真ん中の2人が同一人物にしか見えなかったのです。
もっと言えば、端の人物に関して言えばこれもまた国民的女優のとある方にしか見えないのです。
私の人を見分ける能力の無さが原因しているとは思うのですが、それにしてもみんな同じに見えます。
n番煎じにはなると思いますがもっと色々な「可愛い」が認められてもいいじゃんと思いつつ、筆をとります。

「可愛い」とは


可愛い

「あの男の子のまつ毛の瞬きの仕方、可愛いよね」「あのリス可愛い」「赤ちゃんってほんっと可愛くない?」
このように私も普段「可愛い」をよく使います。
ここで「可愛い」と感じているのは誰でしょうか。
聞くまでもなく自分です。
確かに他者への共感として「可愛い」と思うこともありますが、「共に感じる」のが共感である事から自分も少なからずそう感じているでしょう。
つまり「可愛い」と感じるのは自分以外にあり得ないのです。
自分で「可愛い」と感じている以上、他人と差が出ます。
爬虫類を可愛いと思う人もあれば、こびと図鑑やせんとくんを可愛いと思う人もいます。それでいいではないでしょうか。
(私は爬虫類、特に蛇や蜥蜴を可愛いと思うけれど、こびと図鑑・せんとくんはどうも好きになれないです)

それなのに今の女性に対する「可愛い」は二重で色白、痩せてて小さめと決まっています。
友人は「セミロングの前髪ゆる巻八二わけと相場が決まってんだよ」と言っていました。
(友人の名誉?の為に言っておくと、この台詞は嫉妬ではないし、彼女は二重で色白で社会的にも私的にも可愛いです。)
私と友達の言った「社会的に」可愛いとされているものを足し合わせたら初めにあげた女性の端の2人の特徴と当てはまりました。

多様性を認める社会

アイドルに関して話すと、◯◯◯48や◯◯坂がヒットした理由としてファンの好きな女の子の像が多様化した為、様々な「可愛い」を持つメンバーを取り入れ需要に対応したものと考えていました。
けれど、今回の画像をみてそうではないのだなと気が付きました。
結局、みんな同じ可愛さに向かっています。
勿論、選抜される子以外は多種多様なのかもしれませんが、選抜される子の可愛さは決まっている可愛さです。
確かに時代によって「可愛い」が社会的にはこのような傾向にあるというのはわからなくもないがここまで一致するのは悲しいさを感じます。
多様化多様化といえど結局多様化なんてしていないのです。

「多様なものを認めましょう」と言った時の「多様なもの」もある程度の選択肢から選ばれた多様なものです。
きっと私が「可愛い」の多様性を認めましょうと言ったところで
「ボブの色白の二重の子」「セミロングの色白の二重の子」あと2.3個のエトセトラが選択肢にでただけで「可愛い」の意味が多様化されたと思ってしまいます。
そんな社会。

私の考え

ここまでも私の考えではあったが、最後に私がもっともみんなに伝えたい事を話して終えましょう。
まず、自分の「可愛い」を定義してみてください。
社会の流行に惑わされていない自分の「可愛い」を。
「可愛い」に限らず他の感情も考えてみてください。
「楽しい」「悲しい」「好き」「嫌い」 アンドソーオン。
男の子も同じくです。
好きな子の可愛さについて周りからとやかく言われようと「好きなものは好き」と自信を持って言ってください。
それが「自分を確立する事」と「優しさ」へと繋がります。
そして他の人と自分、また社会の「可愛い」が違っても認めてあげてほしいです。
それが個性なのだから。

とは、言えど小さい男の子(特に小学校高学年から中学校に入る前)は可愛いというのは全人類における共通概念であり、その事への反対意見があっても私は無視しましょう。
そんな冗談も最後の最後に添えて書き終えます。

集まったお金で本を買うか友人とご飯に行きます。 それが執筆の糧になります。 どうぞよしなに。