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美泉定山様
定山渓在住20年 メシヤの学びを始めて12年が立ちました

定山渓温泉を開いた美泉定山 「みいずみ」
定山渓温泉は温泉開発に生涯を捧げ現在の礎を築いた美泉定山にちなんで命名されました。
今からおよそ140年前原生林が生い茂る豊平川上流に温泉を確認した定山は病気やケガに苦しむ人々を
救おうと無人のこの地に移り住み、寝食を忘れて温泉開発に苦心しました。しかし道路は砕かれておらず
時は明治維新の動乱最中 定山の熱意はやがて人を動かし、道ができ温泉は人びとに知られるよう
になっていったのです。

鼻を打つ難所、七里のけもの道をふむ
いまをさかのぼることおよそ140年前一人の修験者アイヌの若者二人に案内され、朝里峠を越えて豊平川
上流の温泉場「定山渓温泉」にたどりついた。この人が定山渓温泉の開祖美泉定山である
定山は礼文塚川沿いに、けもの道をたどり身の丈をはるかに超す熊笹や藪を刈りわけながら
山奥深く分け入った。鼻を打つほどの断崖に定山はここを「鼻こくり」と名ずけた
分水嶺から小樽内川の上流を沢沿いに下ると豊平川に出る。およそ七里山渓から白い湯煙りが幾重にも
立ちのぼっていた  定山はここに天然の浴場をつくり、病に悩む人びとを湯治と祈祷で治療しようと、
決意を固めた。

諸国遍歴の末に蝦夷地へ
定山は今から二00年前の一八0五年、備前国「岡山県」赤坂郡周匝村黒本の池田藩主祈願所
繁昌院、繁昌「宮崎」の次男として生まれた。十七歳で寺を出て、各地の霊山、霊地にこごもり
修行を重ねた、ただしこごもった霊場は資料もなく、わずかに後年、仙台に滞在したことだけははっきりしている。
定山は、壮年日でおよんで「蝦夷地北海道」松前に渡った、ここで修験者総取締、阿吽寺に入り、海沿いに
北上して久遠「大成町」の大田山大権現に留まり、大田法院と名乗った。
一八六一年定山は久遠を発って小樽内の張碓村に入り、野村治兵衛のもとに足をとめた。

湯の沢鉱泉を開く
この頃積丹半島とその周辺の魚場はニシンが群来て千石場所とうたわれていた。
張碓も魚が豊かで、大勢の魚師たちがおしかけいた。
定山は張碓に萬霊搭をたて、魚村を回って人々に熱心に仏の教えを説いた。
そのかたわら近くに湯の沢鉱泉を発見師、湯沸かしで湯沸治を勧めた。
定山は、俳句、絵画、にもかなでていた。 武道もたしなんでいた。
その徳望はたちまち小樽内一帯の評判になった。 定山がアイヌの若者に教えられて定山渓温泉に
着いたのは一八六六年「慶応二年」この時六二歳
定山はこの地こそわが探し求めていた地であるとして、背後の山を常山と名づけて道場とし
毎朝、山野をめぐって天地に祈り温泉場の開発に努めた。      

温泉場の開発に努力
定山は原始林を切り開き畑を作り、自給自足の生活をしながら、たびたび張碓に戻って温泉の効用を説き、
病人やケガ人を温泉場に至る道は難所続ききの険しい山越えで健康な人でさえおいそれと往来出来ない。
ましてや病人やケガ人は到底困難であった 道をつける、それが定山の悲願となった。
徳川幕府が大政棒還し、明治維新を迎えたが、このころロシアの脅威が叫ばれだしていた。
一八六八年春、定山は新政府の石狩役所を訪ねて、温泉場へ通じる道路の開削を願い出た。
役所は了承したが、幕府脱走軍の蝦夷地侵攻によりうやむやになった。
旧幕府脱走軍が鎮圧されて一八六九年「明治二年」八月、明治新政府は蝦夷地を「北海道」と命名した。
開拓使を設置して各地に開拓判官を置いた。定山すぐに島義男「よしたけ」判官に道路の開削を懇請、
島は、定山の人柄を見抜き、着工を約束するが、わずか四ゲ月で解任なる。
後任の岩村通俊は定山の案内で温泉場に赴き、その素晴らしさに感動し、定山を湯守に任命し、
「給料」を与えたうえ、宿泊所を建て、回春橋「月見橋前身」を架けた。
これにより定山の初志はやっと実現した。
その頃東本願寺による虻田、札幌間の本願寺街道街道が完成し、道路の検分きた東久世開開拓は温泉にたち寄り、
「この地を定山渓とせよ」と命じた。
定山はこの頃、常山と呼び 定山となるのは、この後である。          
      
定山、今ここに  ノンフィクション作家 会田一道
定山誕生二00年、今私の胸を熱いものが駆けめぐる 思えば定山の過去帳が小樽、正法寺で発見されたのが
一九七九年秋、長く行方不明と言われてきただけに、唐突な感じだった。
以来定山の足跡を辿って岡山を始め各地を歩いた。定山は修験者だから、どこにもそれしきものはなかったが
太田権現、小樽、張碓そして札幌に様々なものを残していた。
もっとも重要なのが生地の繁昌院に現存する一枚の書きつけだった。この一枚により、なぜ定山は
温泉を求めのかの謎が解けた 定山逝きて一三0年近く、今もこの背後の山に
息づいているのを感じる。 会田様の重いが感じます。          以上

苦難の末、行き倒れに     解けた終えんの謎
定山は、湯守として温泉場の経営を続けるが、暮らしは容易ではなかった。一八七三年「明治六」年に
大洪水が襲い、温泉場とを結ぶ回春橋は流され、本願寺街道も損壊した。
定山は開拓使に申し出て湯守りをやめ、これからは自分の力で生きていこうと決意る。
定山となのったのはこの時である。
一八七六年「明治九」年夏、定山は小樽、定山渓、間の山道を開くため、石川正蔵、小樽の巻口徳太郎から
資金援助を得て測量するが、その後の資金のメドがたたず、断念する。
一八七七年晩秋、定山は突然行方不明になり、還ることはなかった七十三歳だった。
その最期は長く不明だったが、一00年余も経った一九七九「昭和五十四」年秋、正法寺の過去帳から「小樽」 
「美泉定山法印」の戒名がみつかった。 これにより定山は行脚中に突然心臓発作何かに襲われて倒れ
死後、十数日経て発見された、と判断できた、孤独な死であった。
だがその遺志はやがて見事に結実するのである。今なお定山の生きた時代と変わらぬ山姿、 
立ちのぼる湯煙りに、おもいを馳せずにはいられない。

定山渓は北は百松沢山に始まり、鳥帽子岳、天狗山、無意根山、札幌岳、空沼岳等が四方を囲むように
環をなしている。各河川はこれらの山を水の源として流れており、川の中では豊平川わもっとも大きく
小樽内川、白井川等の支流を有し、錦橋付近で豊平川に合流する、
豊平川に沿って薄別、定山渓、小金湯の三つの温泉が湧き出している。    

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次回は節分祭、立春祭について投稿します、
岡田茂吉教祖は メシヤ様
メシヤの学び、浄霊について、興味ある方勉強会も開催してます
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