メシヤの学びヘようこそ

定山渓と浅里峠間、素晴らしい景色ですね。

 信仰の奥座敷
ここでは宗教というものについて考えてみたいと思います。
結論から申し上げますと、現代における宗教の目的は
「本来の人間生活」を取り戻すことだと位置付けられます。
すでに「本来の人間生活」を送られている人は、幸いです
ので、未だそうした生活をされていない人を教え導いて差
し上げることが大切です。と言いますのは、現代社会が
抱える諸問題は、本来の人間生活を忘れているところに発生
しているからです。かつての考古的歴史観では、縄文時代は
極めて野蛮な世界だったように考えられていましたが、青森
三内山遺跡に代表される縄文遺跡が近年次々と発見され、その
概念が根底から覆されました。果樹栽培や田畑の耕作がなされ
交易も行われていて、鹿肉のハンバーグや鯛の活き造リが食卓
に並び、ポセットを持ち歩いていた、、、そのどれもに驚かさ
れたことは周知のとうりです。
古代の人間社会は宗教そのも千五百年もの期間、巨大集落を維持
し、その集落づくりは、祭祀場を中心として各施設がきちんと
場所を決めて配置され、計画的に行われて、農作がなされ、交易
も有りました。しかも、墓地は大人と子供で区別し、埋葬法も変
えて整然と埋葬されている訳ですから、敬神崇祖の思想が確立さ
れた中で、リーダーの下に役割分担がなされ秩序正しい社会が
形成されていたことを雄弁に物語っています。
当時の人びとはそれぞれの分を弁え、自らの特性を自覚し、誠を
尽くして役割を担って生きていたことでしょう。又、祭祀場では
年々歳々自然の恵みに感謝し、次の御恵みへの願いを捧げて祭り
を執り行い、神のご意図を仰いで計画を練り、集落の運営を
進めていたことでしよう
古代の人間社会は宗教そのものであった。
現代の文化形態というものはその宗教のもつ要素が遠心分離つ的
に文化し発展してきた物、と解釈しております。例えば、リーダー
の下に集落の運営や交易がなされていたものが政治、経済という
形で発展しています。又祭りの神楽が芸能という形に、祭りその
ものはれレクレーションやスポーツという形に、というように
科学や医学、芸能、哲学等に細分化し発展してきました。
ところが、発展した反面で、肝腎の宗教を現代人忘れている訳です。
目醒しい発展を遂げた科学技術を駆使して、現代人は便利さを享受
しています。しかし一方で、諸々問題を抱えていることも事実です。
大きな視座で捉えれば、地球規模の環境汚染や民族紛争は深刻さを
増すばかりです。人間個々を取り巻く社会では、家庭崩壊、学級の
崩壊、安全神話の崩壊が叫ばれ、個々人は健康に不安を抱いて
おります。これらの問題は、文化根本にある宗教を忘れたところに
生じているのです。確かに文化は非常に発展し、このことは素晴ら
しいことです。しかし根本の宗教を忘却したところに、人間の諸問題
が発生している訳です。当の宗教団体ですら、そのことを忘れて、団体
の運営のみに心を奪われている現状ですので、仕方がないのかも知れ
ません。   

宗教を想いだすことで諸問題を解決
「宗教をする」ということは、この根本の本来の人間生活!宗教を
想い出すいうことに外なりません。そして宗教を想い出すことで
人間本来の生活を取り戻すという営みが宗教行為なのです。
幸いなことに、現代は遺跡の発見をはじめ様々な分野で意欲的な
研究が進められ、貴重な発見が相次いでいます。身近なところでは
「わらう」「感謝する」「正しい生き甲斐をもつ」と言う事が
免疫力の向上に繋がる。ということか判明しています。又、宇宙
の起源、地球の起源、生命の起源等々数え挙げれば限りが無い程
森羅万象の生成化育の仕組み学究の努力で解明されてきております。
宗教を想い出す作業をする上で、現代程条件の揃った時代は無いと
いうことです。様々な謎が解き明かされつつある時代に際会している
喜びがフツフツと湧き上がってまいります。
「宗教をする」ということの意味、つまり「文化の根底にあった
宗教を想い出す」ことの意義を再認識していただけたでしょうか、
言葉を改めますと、宗教の使命ということになります。
人々に宗教を想い出せて上げて「時代苦を救い人間の問題を解決
する」ということです。
宗教の使命は、もう一点有ります。それは「人々を時代に活き活き
と生きさせて上げる」ということです
メシヤ教の教祖。メシ
ヤ様は、これらの点について簡明に教えを
説いておりますので、本論では、御教を紹介しつつ解説を加えます
以上
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kasaburanka.tae@ezweb.ne.ip

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