メシヤの学びへようこそ

伊都能売観音様
岩戸観音堂左横御本尊様としてお祭りされてます。
岡田茂吉教祖 メシヤ様御揮毛です。 伊都能売観音御描画
霊的には伊豆都能売大御神様  体的には伊都能売観音

「観音力とは何んぞや」  昭和二十五年一月三十日
 
今1つの重要ごとを書いてみよう。観世音菩薩は光明如来と現じ給い
次は、弥勒又はメシヤの御活動をなされるのである、

前述の如く 光は火と水であるが。これに土が加わることによって
火、水、土のお働きとなる。元来火と水だけでは霊のお働きだけで体がない。
これに土が加わって、初めて火水土の三位一体の力を発揮されるので、これが如意宝珠であり
麻邇の玉である。又火は五であり、水は六であり土は七であるから、
五六七の数字をミロクと読むのである。 彼の釈尊の預言にある「五十六億七千万」年後
五六七の世が始まると言う事は、この五六七即ち火水土の順序正しき世界が出現するという
事でなくて何であろう。

昔から妙智力又は観音力というが、勿論妙智力は観音力と同意味である。世に阿弥陀力とか、
釈迦力、達磨力などいう言葉がなく、ただ観世音菩薩だけがその力を唱えたという事は、
不思議であると共に、理由がなくてはならない筈である。これに就いて、文献もなければ
言い伝え如きものもない、私は以前からこの事に就いて疑問を抱いていたが、信仰が進むに
つれて、実にはっきり判る事になったので、それを解説してみよう。それに就いて今1つ、
疑問がある。これはよく聞かれる事であるが、観世音菩薩は男性であられるか、女性で
あられるかという点であるが、これこそ、観音力と密接不離の関係があって、実をいうと
世尊は男であり、女であり、いわば両性を具備され給うておらるるのである。
そうして、男は陽、女は陰である事も、昔から誰も知っている処、火水に分ければ、
男は火で、女は水であり、火は経てに燃え、水は縦に流れる。この経縦がいよいよ
結ばれる時が来たのである。又光とは、火と水の密合で会って、火素の量が殖える
から光が強くなる。観世音菩薩のお働きが光明如意来と現ぜられる所以である。
次に最も重要なる点は、経縦の結合する事によって真の力が発揮する。力らと
いう字は、経ての棒と縦の棒と結んで曲がり、その先端が跳ねる。これは、結ぶ
ことによって、左進右退的回転が発生躍動するという意味で、全く文字なるもの、の
意義深きを思わしむしるものがある。以上の如く観世音菩薩に限り経縦両性を具備
さるるのは、経縦の結合によって力が生ずるそれで特に観音力という所以である。
ついでに、今1つの重要事を書いてみよう。観世音菩薩は光如意来と現じ給い
次は弥勒又はメシヤの御活動をなされのである。前述の如く、光は火と水であるが
これに土が加わる事によって、火水土のお働きとなる。元来火と水だけでは霊の
お働きで体がないが、これに土が加わって、火水土の三位一体の力を発揮されるので
これが如意宝球であり、麻邇の玉である。又火は五であり水は六で、土は七であるから
五六七の数字をミロクと読むのである。彼の釈尊の預言にある五十六億七千万年後、
五六七の世が始まるいう事はこの五六七、即ち火水土の順序正しき世界が出現する。
という事でなくて何であろう。
そうして如何に釈尊が大預言者といえども、実際の五十六億七千万後という如き
天文学的数字の未来を預言し給う必要があろうか。それは何等の意味をもなさない
からである。先ず預言の価値としては、せいぜい数千年位が実際に即している。
キリストの二千後の預言などは、洵に適切な年数であろう。
観世音菩薩のミロクとは、応身弥勒の事で、それは仏説の通りであるが、今後
此の応身弥勒の千変万化のお働きこそ、刮目して見るべきである。
又は五六七の数も369も合計十八である。十は結びであり、八は開く数である。
観世音菩薩の御本体は、一寸八分の黄金と昔から定まっており、御堂は十八間四面
という事なども意義深きを思わしむるものがある。

「観音力療病はなぜ治る乎」昭和十一年二月十七日

罪穢を赦し給う権能をもち給う神は、天地間、唯一柱より在さないである。
それは、宇宙の支配者たる主の神にして、その主の神の表現神で被在らるる
のが、卑「かしこく」も天照皇大神様で被在らるるのである。天照皇大神様
独一真神にして、最尊最貴の御神格に被在るるを似って、直接、人間への
御救ひいの業は不可能の御事が神律なのである。然るに、それ等聖者達が
今日迄主神より委任される場合、其の時代と其の地方とによって限定され
た事であって、それは主神の御意図であるから、止むを得なかった事である
茲で吾われは、現在を凝視する必要がある。それは、一切の機構が世界的と
なった事である。然るに釈迦も基督も、マホメットも、凡ゆる聖者の出現した
時代は、未だ一切が世界的にまでには、到達していなかった事である。故に、
彼らの教や努力は、如何に価値があったとしても、それは、地方的であり
暫定的でもあった事は、止む得なかったのである。古来病気の原因に就い
ては、宗教上からも医学上も、種じゆ論議されて、今似て尽くる所がないので
ある。宗教では殆んどが罪穢説であり、医学では大体黴菌説である。然し
医学の黴菌説は、実際から言って疑問の余地が大いに在るのである。何と
なれば、官民協力し、彼程撲滅に努力しつつある彼の肺結核にしろ、所基の
成績を挙げ得ないという事は、病原其の物は黴菌以外にあるからである。然し
未だ発見されていないばかりである。故に、如何程厳重な消毒を行うといえど
も、羅病し、別段、黴菌に介意しなくとも、羅病しないものはしないという
例は、何を暗示しているのであろうか。又、流行性風邪は、殆んど全部の人間
が侵されていると言って可い位で、此の場合如何にマスクをかけ、「うがい」
を厳重にする者といえども、「ひとしく」羅病する所を見れば黴菌羅病論は、
病原の一部的説明ではあるが、断じて病原の全体を掴んだとは言えないのである。
それに引き換え、宗教の罪穢説は、病原本体を喝破したるもので、吾人と
「いえども」之に一点の異議は無いのである。然るとせば問題は、その罪穢を
如何に払拭し、解消するかと言う事であって、之によって肺結核の撲滅も其の他
伝染病もあらゆる病気の根絶も可能である事は理論と経験によって断言し得るので
ある。然らば、その罪穢を解消する方法としては、如何なるもので、ありや
と言えば、唯1つよりあり得ないので、それは神の御赦しのみである。然し人口
に神と言うが、神にも八百万あって、それぞれの役目を、分担管掌され給う
のである。それは、宇宙の支配者たる主の神にして、其の主神の表現神で被在
らるるのが、畏「かしこく」も天照皇大神様で被在らるるのである。天照皇大神
は、独一真神にして、最尊最貴の御神格に被在らるるを似って直接、人間への業は
不可能の御事が神律なのである。何となれば、人民とはあまりに隔絶給うが故である。
畏れ多き例にはあれど、一天万乗の天皇が御親ら人民に対して玉手を染め給う、
不可能の御事と等しいのである。是に於てか、あまねく、世界万民を救はせ給う
御心の現れとして、救いの執行者を遣され給うたのである。それが観音、阿弥陀
釈迦、基督、マホメット、其の他の格聖者達である。然しるに、それ等聖者達が
今日迄主神より委任される場合、その時代と其の地方とによって限定された事
であって、それは主神の御意図であるから、やむを得なからった事である。
茲でわれわれは、現代を凝視する必要がある。それは、一切の機構が世界的となった。
事である。しかるに釈迦も、キリストも、マホメット、凡ゆる聖者の出現した。
時代は、未だ一切が世界的までには、到達していなかった事である。故に、彼らの
教えや努力は、如何に価値があったとしても、それは、地方的であり、暫定的でも
あった事は、やむを得なかったのである、故に元もと、地方的、暫定的必要から、
生まれた宗教であるとしたら、今日の如き、世界的な時代を救うとしても、それは
不可能である。力が足りないからである。しかも、一国の必要に由って生まれた
政治形態を、全世界に行うとしても、出来得ないと同じ訳である。たとえば、皇道
はロシアには解まい、フワッシヨは、アメリカには適すまい、共産主議は日本には
行い得ないやうなものである。此事に着眼の出来る人は、物像を真に観透す能力者
である。それ故に、一切が世界的に迄なった今日の時代としては、どうしても世界的
救済力とその宗教が発生されなければならない事である。唯然し、その時と所とが
残された問題なのである。茲で先づ、其の時から、検討してみよう、世界的救済が
タッタ今出現したとして、時期は早過ぎるでありよう乎、という事である。それに
対し、否、という人はあるまい、何故なれば、現実としての世界人類の苦悩の喘ぎ
は、最早葱せには出来ない現状である。今にして世界的救済が生まれなければ、人類
の前途はどうなりゆくであろう。あらゆく不健康な人間と不健全な精神と宗教の無力
と思想の混乱をみるがいい。又、ヨーロッパ、アジアの動向を認識するがいい。それは
有志以来類例の無い凄惨時代に向ひつつあるではないか、実に、之こそ所謂世界終末の
姿ではなかろうか、そうして、それを喰止める力、その力の存在は何処にも見当たら
ないのである。是等に由ってみるも、最早世界的宗教が発生し、世界的救済が行われ
なければならない処の、時の条件は充分に具わっていると見るのが至当である。実に
最早遅疑を許さない迄に、時は迫っているのである。次に、所は何処であろう乎、之
は、即座に日本国であるといえよう、それは、古典や、聖者の預言を借りなくとも
明らかである。何となれば、東洋の精神文化と西洋の物質文化を余す所なく吸収し
常に平和と道義の為、努力を続けている国、それは、日本をのぞいて他には類型が
ない事である。此点から観ても、所は日本である事に何人も意義は無いであろう。
故に、時は今、所は日本国に、世界的救済と宗教が生まれたとしても何等不思議は
無い筈である。しかして今や顕現すべき大宗教と人類救済の委任者は、一体無形の
神であろうか、否仏であろうか、又は有形であろうかと、いう事であろうか。無形
の神や、偶像的仏体では、この大事業は到底成し得る筈がない。何となれば、今日
迄の救済はそれであったが為に、終に今日の如き地獄的世相を実現して、どうする
事も出来ない現状ではないか、故に、その救済力を発揮するには、人としての機関
でなければ到底でき得ない事は勿論である。そうして、その機関として選まれたのが
不しよう、仁斉「じんさい」の肉体「メシヤ様」である事である。私は自称救世主
の言葉は嫌であるが、右の如く説明するより致しかたないのである。此の意味に由って
世界人類を不幸と苦悩の檻から、解放させる時が来たのである。随じ、悪魔の意図
から出た処の不正堕落や、暗黒思想、極端に歪められた宗教、狂い切った人間の
行為等、夫等の一切の罪悪の根源を打ち断り、本然の正しさに還さなければならない
と、共に過去数千年間滞積の罪穢に由て、最早動く事の出来ない万般の行詰の原因
である。一切の汚濁を根本から浄めて凡ゆる不幸を除去しなければならないのである。
斯の如く救済を要する人類の数限りない苦悩の中で、何と言っても病苦からの解放
こそ、最重要なる救いは他に無いあろう事である。それが即ち、観音力りよう病法
となって、先ず、現れたのであるから、他の如何なるりよ法も、比べる事の出来ない
程の効果と力あるのは当然である。罪穢を赦し給う権能を行使さるる御仏こそ、実に
慈悲の権化ともいうべき大聖観世音菩薩である。そうして、その救世的活動を仁斉の
肉体を通して行はせられるのであるから、真の病原である罪穢の払拭されてしまう
理由は、誠に明らかな事である。其の為にこそ、仁斉の肉体から不断に放射する
霊光であって、それに由って一切の雲は解消されてしまうのである。以上

御観音様について、メシヤ様のお言葉を掲載しました
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