自己開示に頼らないコミュニケーションの考察

 人と話そうと思うと、自分の情報を曝け出すコミュニケーションばかりしてしまう。特に初対面の人とは他に会話のフックを見つけられない。沈黙の時間が怖くて間を繋ぐために話し続けてしまう。さらにせっかちなので、相手の返答を待たずにどんどん話してしまう不器用な自己開示モンスター。それが今の私である。奇しくもこの話をすること自体が、自己開示モンスターの活動の一環になってしまっている。

 それでも、友達と話すくらいなら大きな問題はないだろう。聞き上手で自分を受け入れてくれる相手とは仲良くなれて、耐性のない相手とは疎遠になる。究極的には私に友達がいなくなるという、それだけの話である(できればすごく悲しいことなので避けたい)。しかし、研究室や職場でもそういう話し方しかできない人がいたら?それは大問題である。
 どうやら、友達と楽しく話すためのコミュニケーション能力と、研究室や職場でのコミュニケーション能力は似て非なるものであるらしい。そんな当たり前のことに最近になって気づいた。そして、どうやら私は前者以上に後者が非常に苦手であるようだ。曲がりなりにもこれから社会人になる可能性が高いので、苦手だからとできないままでいたら痛い目を見そうだ。就活全盛期の現代において、グループディスカッションや面接で上手くできないのは大損である。せっかくの機会なので、友達と話すときとフォーマルに話すときの2つに分けて、うまくコミュニケーションを取るための対策を立ててみようと思う。

コミュニケーションの定義

 ここで、コミュニケーションの定義について一度考え直す。自分が受けた社会学の講義によると、コミュニケーションとは「認知・感情・意図・思考を(必ず多少の誤解を伴って)伝達すること」である。ここで注目しなければいけないのは、この定義の中には「事実」は含まれないことである。
 すなわち私が、他者に自分の話をするときに、事実を通じて「私はこういう風に事実を受け取りました」という認知や、「私のことを知ってほしい」という私の意図や感情を伝えていると言える。
また、相手は「事実」だけではなく、それを通じて私の「認知・感情・意図・思考」を受け取っている。

友達とのコミュニケーションを考える

 どうやら事実を話すこと・自己開示をすること自体は悪ではなさそうだ。ただ、それらを伝えるときには、事実に伴う認知・感情・意図・思考を意識するとより良くなるだろう。辛い経験を話すときは共感を求めるときだけにするとか、身の上話をするときはその話を相手が知ることがどう繋がるか考えるとか、いろんな例も挙げられる。
 コミュニケーションの上手さって、相手の先を読んで相手の欲しい言葉をかけることじゃないんだな。相手をよく見るところまでは同じでも、そこから相手に合わせず、自分の行動が相手にどうとられるかを考えて、誤謬を誠心誠意取り除いて、自分の感情や意図が伝わる最適解で伝える。こういう細かいことを積み重ねて習慣化していくしかない。
 そして、何より意識しなきゃいけないのはコミュニケーションの双方向性である。自分が相手に認知etc…を伝えたいのと同様に、相手も私に伝えたいのである。それを意識しないといけない。
 相手がこういう返答をしてくるだろうことを読んで…といった複雑な思考が必要かと思っていたが、そんなことはないようで安心した。第一にそんなことができるなら、相手の考えや返答が全て予想できてしまうなら、会話なんてする必要はないのである。


研究室でのコミュニケーションを考える

 フォーマルといったが、私が知っているフォーマルな世界は研究室だけなので、卑近な例として研究室を挙げる。ただ、研究室と職場に共通して重視される、発話を伴うコミュニケーションの機能は、「認知」「意図」「思考」の伝達であり、「感情」ではないように思われる。
 例えば教授が「コピー用紙がどこにあるか知らないか」と学生に聞いたとする。このとき教授がしたコミュニケーションには「コピー用紙の場所を知らない」という認知と、「コピー用紙の場所を教えて欲しい」という意図が含まれる。また、このとき学生に期待されるコミュニケーションは、「コピー用紙の場所を知っていれば伝え」、「知らなければ知らないと伝える」ことである。認知の伝達。これだけでいいんだ。
 また、あるときには研究報告書の出来が悪く、教授にひどく叱責されたとする。この叱責に含まれる教授のコミュニケーションは、自分から見て報告書の出来が悪いという認知、不出来さに苛立った感情、学生の尻を叩くという意図、これらを含めた思考の伝達と言える。これまでの私は落ち込む姿勢を見せる、というコミュニケーションで切り抜けてきた。しかし、これではあまりに発展性がない。この後につながるコミュニケーションが何かと考えると、それは、まず教授のコミュニケーションが伝わっていますよという意思表示であるように思われる。出来が悪いという事実を認め(認知を受け取ったという意思表示)、これから頑張りますという表明(叱責の意図が伝わっている意思表示)をする。何か返ってきたらまたその都度返事をする。これで終わり。別に教授の話を受け取ったと伝えればよくて、気に入られたいわけでなければわざわざ機嫌を取る必要はない。
 逆に、自分の意図や思考を主張するときも、教授の批判を恐れなくても良い。それは教授の意図や思考であり、批判はあなた自身の存在の否定ではない。まず教授はあなたのコミュニケーションから伝わった一面を見て、それのみを踏まえた発言をしているだけであり、あなたの意図や思考が今回は受け取られなかっただけ、ただそれだけのことである。
 このように具体的に考察していくと、複雑怪奇な教授の思考回路に踏み込まずとも、コミュニケーションは取れそうであることがわかる。相手のコミュニケーションが伝わっていると意思表示して、それに対して返答する。コミュニケーションは状況に関わらずこれが全てなんだな…。


 グループディスカッションや面接といったフォーマルな場についても書こうとしたが、これらの経験がほとんどない上に、アルバイトも居酒屋ばかりしていて具体的な例を挙げられず挫折した。だいぶ長くなってしまったからちょうどいいかもしれない。むしろ、経験者の読者からコメントで教えていただきたいくらいだ。

 しかしながら、改めて考察をしてみると、こんな高度なことを考えずにできる人々が不思議で仕方ない。尊敬の念は尽きない。
 相手に自分の意図をうまく伝えることがいかに難しいか。思えば私は衝突を避けるような言動を繰り返してきた。衝突を伴ったとしても、働きかけて周囲の環境を変えられるのであれば、コミュニケーションを恐れないようにしたい。


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