言われたら「失礼」な言葉は使わない

「お疲れさま」には「でした」が必要

「お疲れさま」「ご苦労さま」は失礼な言葉ではない。目くじらを立てるなという識者もいる。だが、わたしは使わない。
 社会に出てから、自分より先に退社していく誰かが「お先に(失礼します)」と言うと、反射的に「お疲れさまでした」と返してきた。上司、先輩、同僚、後輩問わず、同じ言葉を使った。新卒で入った会社で「お疲れさまでした」と周りが言っていたのでそれに従ったのだ。そのあと経験した会社はいずれもそれがマナーだった。
 「でした」と丁寧語にすれば、誰にでも通用する。「お先に失礼します」に対して目上の人や上司であれば「お疲れさま」と返されて当然だが、友達ではない同僚、後輩からは「お疲れさまでした」と返されるのが「ふつうの挨拶」と思ってきた。
 同じ社内にいて、仕事抜きに遊んだりしている同年代の友人というなら別である。しかし、友達ではなく社内で名前を知っているだけという関係、あるいはこちらが年上という関係の場合、「でした」を抜いて「お疲れさま」と言われると、ちょっと気分が悪くなる。そして、この人は会議のときも「です・ます」を使えないのか、仕事できない人なのだなぁと思って溜飲を下げる。
 そういう感覚なので、自分は、相手が年下であっても「でした」は省略しない。必ず「お疲れさまでした」と言ってきた。

「ご苦労さま」は論外。「でした」は必ずつける

 「ご苦労さま」についても書いておこう。名前しか知らない別部署の人に「ご苦労さま」と言われたことがある。このときは一瞬、頭にきた。同年代であっても、部署も違うし友達でもない。プライベートな会話を交わしたことがない。つまり立場は対等である。そうした相手には、「ご苦労さまでした」と「でした」をつけるべきと思ったのである。
 「ご苦労さま」にはそれ自体失礼な響きがある。国語辞典編纂者が「昔は目上に対して『ご苦労さまでした』が普通に使われた(だから失礼ではない)」とtweetしているのも見た。だが、言葉の専門家が「でした」をつけた形を「失礼ではない」とわざわざ説明しているということは「ご苦労さまでした」を失礼と思う人が、とくに中高年には多いのだろう。わたしもそうだ。
 百歩ゆずって、「ご苦労さまでした」は許容することにしよう。自分では使わないが、受動語彙としては「許容レベル」にする。「でした」は必ずつける。これを抜いて「ご苦労さま」と言われると、その人への評価を何ランクも下げてしまう。そんなわたしは、きっと「失礼」と思う水準が人よりも高いのだろう。

自分が「失礼」と思う言葉は使わない

 人は自分の「感覚」に基づいて言葉を使っている。人よりも「失礼」と思う基準が高いわたしは、ひとさまに対してはていねいな言葉で接しているということになる。
 「ご苦労さま」は使わない。「ご苦労さまでした」も使わない。「お疲れさま」も使わない。いつでも、どこでも「お疲れさまでした」である。目上の人であっても、これを不快に思う人はいないと信じる。
 というわけで、「言葉を商売にしているのだから、言葉に対して人より敏感」という感覚はプラスに働いていると思う。

「下働き」と叫ぶ編集者

 言葉を商売としていても、失礼な物言いをする人は山ほどいる。以前席のあった出版社でも、「下働きが要るなら言ってね!」と部下に叫んだベテラン編集者がいた。「下働き」とは、Excelに延々とデータを入力したり、現在のデータベースを手作業で作り直したりといった単純作業全般を担当する人のことである。同社では、そうした作業をするアルバイターを10人以上抱えていた。単純作業とはいえ、その作業がなければ本はできない。そういう本を作っている会社であった。
 自社に必要不可欠な業務をする人を「下働き」と称するとは、なんと失礼な人だろう。管理職だったが、こういう言葉の感度をもつ人が昇進していく会社なのか、と首を振った。わたしとは直接業務に絡むこともほとんどないままに辞めていったのは幸いだった。

ふだんから「自分が言われる側であれば失礼だと思う」言葉は言わない、書かない

 何が「失礼」なのかは人によって違う。だが、上にも書いたが、自分が「こう言われたら嫌」なことは失礼なのだ。自分の感覚を大事にし、自分が言われたり読んだりしたら嫌な言葉は使わない。ふだんから口にしない、書かないと決めてしまう。それが大事である。
 そう、「書かない」のも重要だ。オープンなSNSやnote、ブログなど、不特定多数が読む文章を書くときにはとくに言える。「失礼な感覚」は敏感であるに越したことはない。

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