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鍵をかけたTwitterアカウント、かつて友人だった人 メンデルスゾーン『夏の夜の夢』

推敲になっていない推敲

 昔から、自分が言ったことを、後から引っ込めがちだっただけに、このnoteでも悪癖が続いている。一度、公開した記事の細部が、気になって、直してしまう。

 その価値があるほどのテキストを書いているつもりでもないので、なんとも気恥ずかしい。推敲のつもりが、推敲になっていないということも、しばしばある。それでも公開するからには、つまり、読んでもらう、誰かの時間をわずかでも使ってもらうからには、読み物としての体裁を最低限にとどめているつもりではあるけれども……。

 その反省を踏まえて、今回は、なるべく推敲をせずに文を書き進めている。悪文が、ますます読み難くなることを許容するようで、罪悪感を覚えないこともないけれど、書き連ねていけば、一つ二つ、誰かの心に飛び込む欠片が生まれるかもしれない。

 インターネットという存在を知ったころ(これを「黎明期」としてしまう、つまり、自分が知ったときに文化がスタートしたと思いこんでしまうのは、ネットでよく見る間違いだ)、さまざまなテキストサイトには、誰がどうして読むのだろうという、けっしてきれいな文章ではないけれど、とにかく、表現欲だけはぎらぎらとして、いや、それがために、いっそう忘れがたい中身になったテキストが、量産されていたものだ。

 いまは、どうも、140文字以内にまとめてしまうから、よくない。誰かを責めているのではなく、自らに対しての意見です。

Twitterアカウントに鍵をかけた

 そういえば、「めるり(merli)」というハンドルネームで、Twitterをやっている。2008年から始めているので、11年ぐらい経つのだけれど、アカウントを、非公開にしてしまった。

 どういうわけか、そのアカウントには、4,000人近くのフォロワーがいるのだけれど、こちらからフォローしたのが、600人に満たないわけだから、だいぶ、バランスが悪い。相互フォローではない人(アカウント)が、3,400人ぐらいいることになる。鍵をかける前は、ツイートがバズる(ああ、恥ずかしい)ときもあって、自分の知らない範囲まで、名前だけが、というより、アカウントの存在だけが、広がってしまったこともある。

 長年、ある場所にいると、仲が悪くなる人もいるし、気まずい付き合いになってしまったことも、恥ずかしく、悔しくもあるけれど、何度かはある。

 ある日、自分のアカウントをフォローしてくれたアカウントのいくつかに、フォローを返そうと思い、ツイートを見ていると、ずいぶんと、こちらに敵意を持っているような人がいた。

 そんな人が、あえて、こちらをフォローしている。フォローしなければ、そしてミュートすれば、ツイートは見えないのに、それでも確認して、何かを言わずにはいられない、ということだろう。それだけの執着心を、向けている人がいる。無視してもよかったのだけれど、やはり、そういう精神の持ち主に見られているのは、気分がよくないもので、そのアカウントをブロックしてしまった。

 いろいろ考えたが、これから先にも、そういうことが続き、自分のツイートが知らない人のところに届き、ひどく気分を害されたり、憎まれたり、ということが繰り返されるのは、さすがに面倒なことだと感じて、アカウントに鍵をかけた。よいことか悪いことかは、まだわからない。自分は、少なくともSNSでいえば、ずいぶんの数の人と知り合えたし、もう十分だろうか(まだ、30年とそこそこしか、生きていないのに)、と思うこともある。

 数は少ないと思うけれど、このnoteから、興味を持って、Twitterでフォローしてくださる人がいても、フォローは返せないかもしれない。申し訳ないです。

メンデルスゾーン、難解ではなく、むずかしい作曲家

 さて、Twitterでつながっている友人から、「noteで、メンデルスゾーンを取り上げてほしい」というリクエストがあった。

 メンデルスゾーン、これが、自分にはむずかしい。彼の作品は、日本でいえば、「結婚行進曲」(『夏の夜の夢』)が、いちばんポピュラーというか、もはや陳腐に聴こえるぐらい、使われているだろう。クラシック愛好家の間では、続いて、『ヴァイオリン協奏曲』『交響曲第3番』『無言歌集』といったあたりが、人気であると思う。

 メンデルスゾーンがむずかしいと言うのは、難解にすぎる、ということではない。ともすれば、軽く見られがちなのだけれど(ワーグナーが酷評したせいだろうか?)、それでは、重く深刻にやればよいかというと、そういうわけでもない。ドイツ・ロマン派といっても、シューマンやブラームス(もちろん、この2人だって、ずいぶん違うのは、誰でもわかっている)のようにとらえると、なかなか楽しくない。重々しくやると、曲のさわやかなロマン性が失われる。

 「金持ち喧嘩せず」というと、ひどく卑近になってしまうけれど、メンデルスゾーンには、そんな生まれもっての品のよさ、みたいなものがあって、強調すると、ぼってりとした響きになってしまう。

 ただ、一方で、オリジナル楽器の鄙びた音色でさっそうと演奏したものにも、現代楽器による朴訥な表現でも、本来のよさ(これを言語化できないまま、話をすすめるのが、心苦しい)を感じられる録音は少なくない。このあたりの妙を、自分は説明できない。ますます、メンデルスゾーンの音楽が、一言では言えないものになっていく。

 こんなふうに、意見をまとめきれていないものに対して、ネット上でなにかを言うことは、自分には、どうにも不誠実に感じられる。少し話を横に流すと、「この表現は、意図せず、こう受け取られるかもしれない」「誰かが、このような書き方で、傷つくかもしれない」という危惧が増えてきたのも、Twitterに鍵をかけた一因であるような気はしている。

 乱暴に、ぶっきらぼうに、一面的に断言していくようなことは、できれば避けたい。安易に相対的にならず、どちらかの立場を軽率に選び取るような真似もしたくない(だいたい、ネットで話題になる論争のほとんどは、単純に二極化できるような問題ではない)。そんなことを心がけようとするあまり、ますます、なにかに対して意見を言うことが、なくなっていく。

 話題を、メンデルスゾーンに戻さなくては。あまりマニアックな選択をするわけでもなく、また、そこまでこの作曲家に親しんでいるわけでもないので、『夏の夜の夢』を選んでみる。

シューリヒトの淡々とした録音

 『夏の夜の夢』に、「夜想曲」という曲がある。高校生の頃、クラシック音楽を聴きたくなり、とにかく有名な楽曲を聴き漁っていたころ(『夏の夜の夢』は、なんといっても「結婚行進曲」が入っていたのだから)、たまたま知った曲だった。ホルンの夢見るような音色から、典雅でほのかに哀愁の香る木管と弦の音色が、自分の想像していた「クラシック」のイメージにぴったりで、よく聴いていた。

 カール・シューリヒトの演奏で、聴いてみる。このアルバムは、「コンサート・ホール・ソサエティ」という、LP時代に通信販売でクラシック音楽を配布していたレーベルに録音されたもの。シューリヒトは、このレーベルに多くの録音を残している。

 詳しい経緯を知らないのだけれど、このメンデルスゾーン集は、オーケストラがバラバラだ。まず、『夏の夜の夢』は、バイエルン放送交響楽団。序曲『フィンガルの洞窟』は、南ドイツ放送交響楽団(のちのシュトゥットガルト放送交響楽団)。序曲『美しいメルジーメの物語』と序曲『ルイ・ブラス』は、南西ドイツ放送交響楽団(のちのバーデン=バーデン・フライブルクSWR交響楽団)となっている。

 ちなみに現在、シュトゥットガルト放送交響楽団とバーデン=バーデン・フライブルクSWR交響楽団は統合して、南西ドイツ放送交響楽団となっている(日本語で書くと、こんなにややこしい!)。

 シューリヒトという指揮者については、軽妙である、とか、枯れた、とか、音楽に真摯に向き合った、とか、いろいろなことが言われているけれど、自分には、この人のよさを伝える方法が、まだよくわかっていない。

 しかも、コンサート・ホール・ソサエティに残した音源は、総じて、録音がそれほどよくない。くぐもった音質なので、よくいえば幻想的な面が出ているけれど、悪くいえば、細部が聴き取りづらい。フォルテで音が濁ったように聴こえることもある。しかし、弦のロマンティックな音色と、管楽器の渋い響きが、まったく聴き取れないわけではない。

 たとえば、序曲。淡々としているが、速すぎるということはない。盛り上がるところも、元気になりすぎない。終盤のしみじみとした情感は、オーケストラによるところが大きいだろう。最新の録音に比べれば、細かいニュアンスが聴こえてこないし、この曲のベストである、というつもりはないけれど、メンデルスゾーンを考えるときに、どうにも忘れられない。

 「夜想曲」も、ずいぶん、くぐもった管楽器の音色で始まる。劇中に出てくる2組の恋人たちが、眠りに落ちている状況を描いているから、それでいいのかもしれない。その中から、弦の高音が、少しずつ、あたりに匂い立つように、現れてくる。その神秘性。シューリヒトの演奏は、大げさではなく、かといって軽やかでもなく、くすんだ音色による、淡々としたものだ。だから、こういう曲の味わいが、逆に浮き上がってくる(一方で、「スケルツォ」あたりは、もう少しキビキビしていても、と思う)。

「夜想曲」を聴いてほしかった

 Twitterに、もう、こちらから連絡も取らず、ツイートもあまりしていないアカウントがある。友人だった。過去形なのは、もう、向こうがこちらをどう思っているか、確かめようがないからだ。いや、友人関係には、定期的な確認など必要ないことは、わかっているのだけれど。

 だいぶ前に、その人が、「重すぎなくて、メロディーがきれいなクラシックの作曲家を聴きたい」とツイートしたことがあった。自分は、メンデルスゾーン(と、シューベルトだったかな)を勧めた。その選択自体は、間違っていなかったと、いまでも思うけれど。しかし、あのとき、メンデルスゾーンの、なにがわかっていたというのだろう。

 記憶が曖昧だけれど、そのとき、勧めた何曲かに、『夏の夜の夢』が入っていた気がする。「あの『結婚行進曲』も入っているし」と、言ったかもしれない。ただ、自分は、その前の「夜想曲」を(正確には、曲と曲の間にメロドラマが入るのだけれど、カットされる録音のほうが多い)、聴いてほしかったのだと思う。あのメロディーと、ホルンの音色の後ろで、風にさざめく水面のように寄せて返す弦のうつくしさを、味わってほしかった。きっと。

 いまとなっては、もう、その人に伝える術はない。

 メンデルスゾーンは、嫌いではないものの、多くの曲を愛好しているわけではない。『夏の夜の夢』も、年に、何回、聴くだろうか。しかし、「夜想曲」は、そのTwitterの思い出とともに、聴くたびに、うっすらとした喪失感と、「あのときの自分と比べると、クラシック音楽の何をわかっているのだろう?」という疑問を、胸に残していく。

 しかし、メンデルスゾーンの音楽は、そのような気持ちを過度に深刻にすることは、けっしてない。そこが、彼のよさなのだと、勝手に思ったりしてみている。

(ところで、メンデルスゾーンでもっとも好きな曲は、と言われると、ずっと、決めかねている。交響曲は、どうも、これだけあれば、という名録音に、まだ巡り会えていない。ヴァイオリン協奏曲は、自分がこのジャンルにあまり強くないせいで、最上の位置に置くことができない)

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