M-1グランプリ2020の話

 M-1グランプリ2020について、素人が思ったこと。主にマヂカルラブリーと見取り図に対して。

 マヂカルラブリーのこと。

 「マヂカルラブリーの漫才は好みじゃない」と言われれば、そういう人もいるだろうな、と思う。一方で、「あれは漫才じゃなくてコント」という意見は、無理があると考えている。

 たとえば、つり革のネタ(2本目)なら、「野田クリスタルが乗客から車内販売員になる」「村上が車両の外(野田が演じている世界の外)からツッコミを続ける」という2点は、コントだとほぼ不可能な仕組みだと思う。

 また、村上が「つり革を掴め!」「手すりならいいだろう!」と野田にアドバイスして、野田が息も絶え絶えにそれをマイムで表現するところは、まさに漫才ならではの掛け合いではないか? これがコントだとするなら、村上は“何役”なのだろう?

 コントの場合、舞台と役柄に沿って、ボケとツッコミが動かないといけない(ことが多い。もちろん例外もある)。そうなると、マヂカルラブリーのネタだと、村上は電車に乗ったり、車内の野田を観察するポジションになったりしなくてはいけなくなる。ついでに言えば、おいでやすこがのネタ(2本目)も、コントだとするなら、こがけんが歌っている間の小田を何役にするか/どういう立場でツッコませるかを設定しないといけないはずだ。

 ボケがクレイジーな振る舞いをし続けて、それにツッコミが(とくに何を演じるでもなく)ツッコミ続けるという展開は、コントだと、逆に設定が不自然になる。セットも衣装もない。最初にセンターマイクの前でやり取りするだけで、本題にスッと入れる。”漫才”というフォーマットでないと、マヂカルラブリー(と、おいでやすこが)の決勝2本目は成立しにくい。

 よって、マヂカルラブリーのネタは、考えれば考えるほど、漫才だと思う。というよりも、「コントではありえない」ネタだ。

 余談ながら、「ボケツッコミの手数をできる限り増やす」ことがM-1の必勝法の一つだとするのであれば、およそ3分間に渡って「変な電車に乗り続ける(=休みなくボケ続ける)」というマヂカルラブリーの漫才は、M-1に最適化されたネタの作り方ではないかという気もする。

 もっとも、ボケが舞台中を動き回ったり、ツッコミが大声で叫んだりするコンビが多かったのは、コロナ禍でリモートでのネタ披露を余儀なくされ、観客が入れるようになってもなかなか声援や笑い声が出せないため、以前よりも出演者側が盛り上げることを意識する環境が続いたこともあるのかもしれない。

 さらに余談。自分ぐらいの世代(30代)が言うならまだしも、もっと上の世代に「しゃべくり漫才が王道だと思うのは古い人間なのかな」みたいなことを言われると、「いや、ザ・ぼんちとか、B&Bとか、もう少し上ならやすきよとか、どうなるんでしょう……」とは感じる。

 ついでに、しゃべくり漫才が好きだと主張する人が、その例として和牛を挙げることがあって、びっくりする。いや、彼らはもちろんしゃべくりもできるけれど、M-1では一貫してコント漫才だったのではないか?

 見取り図のこと。

 個人的に、去年までの見取り図の漫才には、気になる点が2つあった。「2人がケンカをすると、ガタイの良さで盛山(ツッコミ)が力関係で上に見えてしまう」「面白いフレーズのツッコミを出したいがために、ボケが唐突に変なことをし出してしまう」というところ。

 たとえば、見取り図の漫才でたびたびある、2人がケンカになる流れ。外見だけで見れば、「いや、普通に盛山がボコボコにできるでしょう」と思える体格差がある。

 だから、リリーが多少おかしいことを言っても、本来なら観客にボケのおかしさを説明するツッコミであるはずの盛山に、「力で相手をねじ伏せられるのでは?」と感じてしまうときがあった。ネタ中に揉み合いになるきっかけは、だいたいリリーが発端になるだけに、余計にそう思えてしまう。

 また、盛山は、ネタの流れとは関係なさそうな、独特なフレーズでツッコミを入れることを武器にしている。今回で言えば、1本目は「ドンキーコングか何かですか」、2本目が「俺ってモハメド・アリなんかな」がそれの代表だろう。

 しかし、それを言いたいがために、その展開にさせたんだろうな……というのが透けて見えるというか、リリーが変なことを(急に)始めて、盛山が待ってましたとばかりに変則的なフレーズを叫ぶ流れに、いささか唐突さを覚えていたのは、自分だけだろうか。そのツッコミが言いたかったんだろう、とツッコミたくなるというか……。

 ところが、1本目のネタ。コント漫才にしたことで、「そういう役柄である」と設定したのは、見事な解決法だと思った。リリーに「常識が通じない変な人」を演じさせ続ける。これは、コント漫才の特徴をふまえた、うまい演出だ。

 大御所になった芸人と、それについたマネージャー、という設定でネタは進んでいく。とても単純に言えば、マネージャーが下手に出るはずなのに、大御所相手に横暴な振る舞いをしていく、というのがネタの骨格だ。しかし、この設定が、見取り図の漫才ではことさらに活きてくる。

 ネタの序盤で、マネージャーでありながら、大御所であるはずの自分をヤジったリリーに対し、盛山が怒り出す。そして揉み合いになるのだが、ここで抵抗するリリーに、盛山が「なんで押し返してる?」とツッコむ。この部分は、大御所芸人(盛山)とマネージャー(リリー)という立場なら、マネージャーは抵抗などできるはずもないのに、普通に歯向かってくることの異常性をアピールし、彼は常識が通じない人間である……という説明になっている。

 本来なら丁重に扱わなくてはいけないはずの盛山に、異常な行動を繰り返すリリー。困惑しきりの盛山は、とうとうネタの終盤で、「お前が怖いから向こう行って!」と怯え出す。ここにきて、彼らの力関係は完全に逆転する。腕っぷしからいっても、設定からいっても優位なはずの盛山が、リリーに対して劣勢になる。

 “不自然”な行為を積み重ねることで、ボケが奇天烈な行動をすることは“自然”になる。クレイジーなリリーにイラついていたはずの盛山が「怖い!」と叫ぶ。「こいつは常識が通じない変な人だ」と観客に説明する。だから、そのあとにリリーが素っ頓狂に床を叩き出すボケに説得力が生まれる。たしかに唐突は唐突かもしれない。しかしながら、リリーが演じるマネージャーは唐突なことをする役柄であることは、既に説明されている。“自然”な流れなのだ。

 その上で、盛山は「ドンキーコングか何かですか」とツッコむ。ドンキーコングを知っていれば、普通に笑えるポイント。その上で、ドンキーコングという概念をよく知らない人でも、そこに至るまでの経緯が整理されているので、「ああ、変なやつだと言っているんだな、人間ではないキャラクターみたいに不自然だと表現しているんだな」と理解できる。

 だからこそ、2本目でしゃべくり漫才の形式に戻したのは、ちょっとまずかったと思う。

 コント漫才だと「常識が通じない変な人」に振り切った設定にできるが、しゃべくり漫才だと、ボケは(ある程度)理性的な性格に収まりがちになる。おまけに見取り図は盛山もボケっぽいフレーズを言うので(今回だと「ライターに火を点けたら神として崇められました」のくだりなど)、リリーの大ボケがすこしだけ弱くなってしまうのだ。というよりも、ボケに対するツッコミとしての「常識感」が薄れる、というか。

 1本目だと「とにかくクレイジーなマネージャー」という設定だから、あまり不自然に感じなかった突然のフリが、「なんで急に?」と感じてしまう。どうして、ぶつかっただけの盛山に、急に(けっこう本気に見える)パンチやキックを繰り出すのだろう。どうして、漫才の範疇でそれなりに常識が通じそうなやり取りをしていたはずなのに、いきなり(モハメド・アリ戦の)アントニオ猪木を彷彿とさせる動きをし始めるのだろう。

 それらの必然性が薄く思えるために、終盤のツッコミとしてパンチラインになるはずの「俺ってモハメド・アリなんかな」が、急に放り込まれたフレーズとして、ネタの中の起伏ではなく、違和感のあるパーツになってしまう。終盤に向けてのピークが生まれず、漫才としては、かえって全体的にフラットな印象になる。

 最終決戦の見取り図は、去年までの、なかなか最終決戦に行けない漫才に戻ってしまったように思えた。もちろん、凡百の漫才師が届かないレベルにいたのは事実。だけれども、強烈なフックを出し続けたマヂカルラブリーの前に敗れてしまったのは、そういうところにもあったような気がする。インパクトが薄かった、というより、インパクトがあるボケ&ツッコミを納得させる仕組みが足りなかったというべきか。

 ちなみに、今年のM-1に関して、もっともおもしろかったのは、お笑いに詳しくないTwiiterのフォロワーが、錦鯉のネタにびっくりしていたこと。彼らの年齢を知って、「ベテランならではの落ち着いた漫才が見られる」と思っていたらしい。錦鯉に対してそう思っていた……という事実が、もう、めちゃくちゃおもしろくありませんか?


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