忘れてください、自分のことを
あまり詳細に綴ると乱雑な文章になりそうなので、サクサクと書いてしまう。ある人物がいた。その人と自分は親しかったのだが、いろいろあって、縁遠くなってしまった。
いや、「いろいろあって」とすると、なんだか込み入った話のようだ。実際、その通りなのだけれど、一言で言えば、相手がこちらに嘘をついたことがあった。嘘をついたというか、本当のことをずっと言わなかった……というか。それがために、こちらはずいぶんと困ってしまい、それが決定打になって、2人は疎遠になった。
いや、という否定は早くも2回目になるが、疎遠になったというと、ずいぶん緩やかなフェードアウトが想像されるかもしれない。実のところ、そうでもなかった。大人になりきれなかった自分が、かなり相手を非難したことを覚えている。相手は、その言葉にあまり反論もしなかった。
まあ、客観的に見れば、非は向こうにあるわけだし(と断言してしまうのも、すこし躊躇するというか、卑怯ではないかと思う。なんだか一方的な証言をしている気がするから)、こちらもずいぶんと落ち込んだので、しょうがないかもしれない。そういう立場になる振る舞いを、それぞれがしたという話。
時計の針をぐっと進める。昨年の12月、誕生日を出張先で迎えた自分は、それから数日後、古い旅館で仕事を進めていた。出張はまだ続いていた。
いまになって思うと、なぜ、そうなったのだろう。あまり連絡を取っていなかった件の相手と、深夜に、すこしだけやり取りしていたのだ。
そこで、相手が、人生の転機といっても差し支えない局面を迎えつつあることを知った。もちろん、人の一生はそう単純ではないけれども、すくなくとも、相手の説明を聞く限りでは、悪い話ではないように聞こえた。
ただ、その話の中で、どうしても自分が飲め込めないものがあった。相手が送ってきた、あるメッセージ。それは、過去に何度か聞いていて、その都度、受け取れきれずにいた相手の意志。そして、現在になっても、あまり聞きたくなかった言葉。
「あのとき、本当のことを言わなかったことを、一生後悔すると思う」
もしかしたら、そう言うのではないか、という気はしていた。相手は、根っからの悪人ではない(と思いたい)。こちらに言いにくいことを伝える際に、つい、ごまかしてしまったことは、当時からずっと知っていたから。そして、それに対して開き直れるほど、面の皮が厚い人間でもないこともわかっていた。でも……。
そうだとしても、今、そんなことを言っても。
相手の言葉を嘘だとは思っていない。これからも、2人の間にあったことを悔やんでいくのだろう。いや、もう、何度もしたのだろう。なんとなくだけれど、それはわかる。自分も、何度もそのような局面に陥り、額をついて謝りたくなることはあったのだから。その記憶が、他人に安易に敷衍できるものではないにせよ、「気持ちはわかる」ぐらいは言ってもよいだろう。
もっとも、そんなことをしても、相手の気が晴れないことも、自分は知っている。それは、迷惑をかけられた側にとっては、相手が後悔しようがしまいが、どうでもいいことだから。どっちみち、だ。
件の相手にとって、昔の行いを悔やむとき、それは「彼(つまり、ぼくですね)に悪いことをした、かわいそうだ」ではなくて、おそらく、「自分は悪いことをした、なんてひどい人間なのだろう」という自己憐憫に近い。
仮に、こちらの顔や名前を忘れたとしても、その後悔は十分に「可能」になっている。根本はこちらを思いやることではなく、自責の念の発露なのだから。新しい道に進み、ちょっとしんみりしたり、道中に疑問を持ったりしたときに、都合よく記憶を引き出してきて、人生に悲劇性をもたらすスパイスとして、自分は機能するのだとすれば……いいよ、そんなことしなくても。
現実問題として、相手はどうも成功への道を歩んでいるように見える。そんなときに、独りで仕事先の旅館でボーッとしている自分に対して、「申し訳ない」と言われても、シンプルに困るのだ。そちらは幸せをつかめるかもしれないのだから、こちらに構っている場合ではない。その幸せは、まだこちらが手に入れていない類のものに思えるし。
だけれども、大人になれない自分の弱さ。あの夜、相手を一言祝ってそれでおしまいにすれば、なんとスマートだったことだろう。あるいは、黙ってやり取りを打ち切ったほうが、まだ賢かったかもしれない。
しかし、自分は、さまざまな言葉を相手に投げかけて(投げつけて)しまった。すべてをここに書くような真似はしないけれども、素直な祝福だけではなくて、その中には、妬み、嫉み、恨みのようなものがあった気がする。「過去を水に流そう」という態度に包んだ、ささやかな毒のような自虐も吐いた記憶がある。そして、煮え切らないマイナスの言葉たちは、相手が心地よく後悔するための種になるに違いない。
連絡を終えて、寝慣れていない旅館の布団の上に横たわり、ただ天井を見つめていた。疎遠になるきっかけが生まれた時から、相手は自分に対して、何をどう考えていたのだろう。そして、こうも考える。自分が今まで傷つけていた人たちは、頭を下げようとする自分を見て、何を感じていたのか。
なお、その日のあとも、ささやかながら会話のやり取りは続いた。もっとも、言うことがお互いに無くなっていって、特に明確な合図もなく終わっていったけれど。
連絡を取っていた数日間、ずっと、考えていた。いや、「考えていた」というよりは、自分勝手な祈りだったような気がする。相手に対して、一切を気に病まず、忘れてくれないだろうか……と。
忘れてください、自分のことを。そのほうが、お互いのためではありませんか。
いや、おそらく、その考えを自分の人生に当てはめ、記憶と思考の中に乱反射させて、自分が許してもらえるように祈っていたのかもしれない。牽強付会の極みではあるけれども。これまで自分が気に病んできたすべてのことを、こちらの自己憐憫ではない形で、みんなが忘れてくれるように。「忘れてください、自分のことを」というメッセージを、自分の都合の良い願いに変えて……。
かくいう自分も、相手のことを忘れようと努めている。だけれども、たまに思い出してしまう。もしかしたら、向こうもこんな感じだったのだろうか? だとすれば、お互いに、いつ、このことを忘れられるというのだろう。
わからない。おおよその見当が付くには、自分は若すぎる。知ったふりをしてやり過ごすことは難しい。逆に、一切を相手のせいにして忘れるには、自分は年を取りすぎている。いろいろな人の立場に思いを馳せてしまう。
そして、今年も仕事が始まる。余計なことを考える時間は減っていくのだった。