人の幸せを見ると自分が情けなくなる Judee Sill『Judee Sill』
周りの人の成功や失敗を眺めながら
気がつくと、人の幸せを見ると、少しだけ苦しくなるようになってしまった。それは、まったく、自分の立場がそこまで届いていないところにいるからだろう。しかし、人生とは、他人と比較してどうこうというものでもないことも、すでに言われ尽くしていることだ。つまるところ、他人より上か下かというよりも、自分の至らなさを、さまざまなところに勝手に見出している。これはネガティブな自意識過剰なのだと思う。
わかりやすい例で言うと、両親が揃って病気になってから、「孫の顔を見せたい」と思うようになった。だけれども、それは、自分の自己実現に、他人を巻き込んでしまう、古い価値観なのではないか? あるいは、仕事で名を成し、立派な役職に就く、そんな“出世”を目の当たりにすると、僅かながらの焦燥感も浮かんでくる。これは何に由来するのか、考えると面倒な話だ(考える必要なんか、そもそもないことなのだけれど)。幸せそうにしている同世代の人を見ると、とても素晴らしく思う心の中に、小さな陰があることに気付く。その人を憎んだり妬んだりしているのではなくて、自分の器が小さい、という話。
ある意味では仕方のないことだと思う。社会の中で生活していると、周りの人生設計が目に入ってしまう。30歳を過ぎると、それまでの歩みが現実の立場に反映されてくる。自分のアイデンティティと向き合わざるを得なくなる。仕事ですぐれた功績を挙げ、家に帰れば愛する家族がいる、という人に、「1人で生きるのも楽しいし、周りの目を気にすることもない」と言われると、99%はありがたいという気持ちになりつつも、1%の「あなたは、そう言えるでしょうけれど……」が生まれているような。くどいようですが、器が小さいということです。
だからといって、周りの人、見知らぬ人を問わず、その人たちが不幸になればいいとは思わない。そうなったところで、自分が相対的に浮き上がるわけではないからだ。公務員の給料を下げたぶんだけ民間の給料が上がるわけでもないのと同じ理屈である(ちょっと違うかもしれないな)。いわゆる“メシウマ”という感覚はよくわからない。憂鬱な人がいて、他人が憂鬱になったところで、憂鬱な人がプラスワンされるだけではないかしら。
むしろ、周りの人の失敗ほど、見たくないものはない。だいたいにおいて、自分と関わりのない芸能人やスポーツ選手などの没落話、スキャンダル、失敗談もあまり好きではないのに、どうして関わりのある人のマイナスを積極的に願うことがあるだろうか。人間は、失敗する予感を嫌というほど感じていながら、どうしようもなく歩み出さなければいけないときもあるのだし。それを笑って、裏側にあった(かもしれない)ことを頭に入れず、自分は斜に構えたスマートな側にいますよ……とうぬぼれる感覚など、10代の頃に捨ててほしい。
ある先輩は、歳を重ねるにつれて、いろいろなことが許せるようになると言っていた。「自分はこんなもんか」と感じ、こうだったかもしれない、ああなっていたかもしれないと、自分の中にくすぶっている、何かしらを消していけるということらしい。若いときの放浪が「自分探し」とするなら、それは「自分なくし」(確か、みうらじゅんが提唱した概念だったと記憶している)に近い考え。
もし、そうであるならば、早く歳を取りたい。極端なことを言えば、取り返しがつかないところに来た、と実感したくもある。
ところがどうして、自分が不幸のどん底にいるかというと、そういうわけではない。生活もできているし、仕事もあるし、友人もいる。もう、「人間失格、生まれてきてすみません」という感じでもない。アッパーな人生を送っているわけではないものの、低空飛行でなんとかやってきている。
そう、かなり感傷的に書いているわけで、実のところ、普通に生きている。ドラマチックな転落を迎えているわけでもない。ものすごく極端なものを引き合いに出せば、『豊饒の海』のラストシーンのような、圧倒的な喪失感などありやしない。
ただ、この低空飛行というのが、また、微妙にやっかいで、たとえば、20代のときにうつ病を発症していなかったら、もっと健やかで明るい毎日があったのではと、悔やんでも悔みきれない気持ちになるときがある。あるいは、学業でも、仕事でも、あるいは趣味でも、何か、掴めていたとしたら?
なんともわからない。ぼんやりと、周りの人の成功や、失敗を眺めながら。
穏やかなバランス感覚
Judee Sillというシンガー・ソングライターが、幸福な人生を送ったのか、どうか。
父と兄が幼い頃に亡くなり、母は再婚したものの酒びたりに拍車がかかり、本人は10代から犯罪と麻薬におぼれる生活になった。結婚した相手もドラッグが原因ですぐに亡くなる。彼女が手を染めた犯罪というのも、強盗を繰り返すレベルの重犯罪で、薬物欲しさの売春も一度や二度ではなかったらしい。ゴスペルの演奏スタイルを身に付けたのも、服役中のときだという。
『Judee Sill』(1971)は彼女のデビュー・アルバム。Jackson BrownをデビューさせるためにDavid Geffenが始動したアサイラムの所属アーティストとなり、他のアーティストよりも早く完成したので、レーベルの最初のアルバムとなったそうな。いずれにしても、最初の1枚。期待されていなかった、ということはないだろう。
プロデュースにはJim PonsとJohn Beckが名を連ねている。2人はThe Leavesのメンバーであり、Judee Sillの曲をレコーディングしている縁がある。ちなみにJim PonsはTurtlesに加入し、このアルバムにも収められた「Lady-O」を取り上げていた。要するに、彼女に早くから目をかけていた人たちといえる。
1970年代における女性SSWの中でも、いや、2020年に至るまで時代を広げてみても、これは飛び抜けたクオリティを持った名盤だと思う。よく「すべての音楽ファンに聴いてほしい」などという、称賛しているようでまったくターゲットを絞り込めていない残念な売り文句があるけれども、どうしてもその言葉を使わないといけないとすれば、こういうアルバムに用いられるべきだろう。
基本は、いかにもSSW然としたもの。アコースティック・ギターの弾き語りに控えめな管楽器やストリングスを重ねたり、ピアノ主体の曲ならバックはロックバンドだったり、といった具合。フォーク的でもあり、ゴスペルを思わせる旋律もある。
ビブラートを抑え、優しく話しかけるように歌うところは、彼女の個性だろう。もう少しソウルフルな歌い回しだと、だいぶ土くさいものになっていたはずだ。このフォーキーな歌唱は、アメリカの女性SSWやフォークものが発掘されるときに、「Judee Sillのような」という形容が使われがちな理由の一つではないかしら。
ゴスペルだけでなく、宗教音楽や、スピリチュアルな世界を描いた作品にも影響を受けたというのが、ポイントだと思う。ちなみに彼女は、17〜18世紀の薔薇十字団の教義について書いた本などの、オカルティックな書籍も読んでいたらしい。
たとえば「The Phantom Cowboy」は、いかにもカントリー風味の始まりだけれど、アレンジのオーケストラの入れ方は、バロック風味ですらある。「The Archetypal Man」の途中に入るスキャットも、R&Bやジャズ・マナーのそれではなくて、どうにもバッハっぽい(The Swingle Singersほど洗練されているものではないものの)。あるいは、60年代のロックにおける、チェンバロを入れてみました、という曲に似た風情もある。
それでは、全体として大仰な仕上がりになっているのかというと、そうでもないのがおもしろいところ。印象は穏やかで、むしろ内省的だ。
たとえば、「My Man on Love」の鐘が鳴る一瞬。信仰を表明する歌で、鐘を鳴らすだなんて、陳腐でベタな手法だと思うでしょう。ところが、この控えめに鳴る音色は、まさに「ここでしかありえない」という、絶妙なところにある。初めてその部分を聴いたとき、大げさでなく、目の前に光が差すような思いがしたものだ。
穏やかなバランス感覚、と評すればよいのか。フォーキーというけれども素朴すぎないし、ゴスペルの気配があっても力こぶが出るぐらいの歌いまわしはしないし、アレンジがプログレッシブすぎるわけでもない。やり過ぎないけれど、さまざまな工夫が効いている。
歌詞も信仰を表明しているように見えて、抽象的で、どのようにも取れる、といった風情。確かにキリスト教的な世界観はあるものの、スピリチュアルでもあり、一方で神秘主義的なカルトさにあふれているわけでもない。なんというか、この人は、やり過ぎないのだろう。
その中で、個性的なのは「Jesus Was A Crossmaker」。失恋の歌なのだけれど、別れた恋人のことを罪人のように言いながら、「でも、イエスだって十字架作りをしていた」と締める歌詞になっている。聖人だって世俗的な生活のための行為をしていたのだから、という、別れた相手を許す意味合いだろうか。
"However we are is okay"
さて、『Judee Sill』のリリースからおよそ1年半後、セカンド・アルバムとして『Heart Food』(1973)が発表されたものの、リアルタイムでヒットしたわけではない。当時としてはかなり間のあいたリリース、しかも内容は地味(と単純に書きたくはないけれど、すくなくとも「派手」ではない)、あまり売れる要素はなかった。
彼女は音楽業界からフェードアウトしていく。作品は作り続けていたのだけれど、悪いことに障害が残るほどの交通事故にも遭い、痛み止めからか、またドラッグを乱用するようになり、最終的には(おそらく)オーバードーズで亡くなってしまう。
それから40年以上が経った。今となっては、彼女の作品を称賛する声は多い。Jim O'Rourkeはお蔵入りとなったサード・アルバムのミックスを手がけているし、XTCのAndy Partridgeもソングライティングの能力を絶賛している。日本でいえば、クラムボンがカバーしていたっけ。
後年にさまざまなミュージシャンが彼女を評価したり、楽曲をカバーしたり……という事実は、音楽家として、高い位置に置いてもらったということかもしれない。
でも、そうであれば、生きている間に、もっと恵まれてもよかったのではないか……と、不遜なことを考えたりもする。
もちろん、人の幸せなど、他人が判断する権利などあるはずもない。それなのに、自分は、「もっと報われるべきではないか」と考える。こちらがコントロールできないところに想いを馳せてしまっている。
そんな自分が、何度も、何度も聴き返したのが、彼女の曲の中でも、もっとも好きな「Lopin' Around Thru the Cosmos」。人生の歩みにくたびれてしまった、という歌なのだけれど、彼女はその気持ちを吐露すると同時に、同じく疲弊してしまった他人を励ましていく。
So keep on movin’
Or stay by my side, either way
I’ll tell you a secret
I’ve never revealed
However we are is okay
「Lopin' Around Thru the Cosmos」
穏やかに浮遊しているような曲調で、最後に歌われるフレーズ。Judee Sillという人間の人生を知っているから、とてもつらいものに思えるのかもしれない。だけれども、このメッセージが救済にも似た意味をもって自分の心に染み込んでくるのは、どういうわけだろう。曲の持つ強さ、なのだろうか。
(ところでこの曲には、カナダのシンガー・ソングライター、Lori Cullenによる絶品のカバーがある。これが収められたアルバム『Buttercup Bugle』は
Free DesignのChris Dedricksがプロデュースを手がけており、必聴!)
みっともない人間には優しい歌が必要だ
救いを求めているような、贖罪を願っているようなアルバム。それは、自分を傷つけた恋人を「イエスも十字架作りをしていた」と言って許すような、どうあっても私たちは大丈夫だと言うような、世界のどうしようもなさを肯定しているもの。
自分は、彼女の波乱に満ちた生涯を知ってしまっているけれど、そのためにアルバムへの思いを特別にしているわけでもない。仮に、Judee Sillが不自由ない生活をしていたとしても、多くの人に憎まれていたとしても、作品への評価は変わることがない。
彼女の人生が波乱に満ちたものだったから、この作品が傑作だというのではない。ここには、あまりにも繊細で優しい、歌と言葉がある。聴くものが許されたと実感するような音楽の魔法がある。だから、自分はこのアルバムを愛している。打ちひしがれ、生きることを諦めそうになったとき、耳を傾ける。
ただ、繰り返しになるけれども、傲慢な思い入れだということは承知で、こうも思ってしまうのだ。彼女は人生の中で、幸せだったのか?
もっと報われるべきではなかったか、などと考えて、自分の意志など及ぶはずもない、他人の生をジャッジしようとする傲慢さを恥じる。そんなことを考えるのは、自分の人生の評価を、自身で不安に思っていることの裏返しかもしれない。
人の幸せを見て、自分が情けなくなったとき、Judee Sillの歌声に何度となく励まされ、救われたような気分になる。でも、自分自身は、最後まで「However we are is okay」の気持ちを持ち続けられるだろうか? 生き続けて、彼女の身に降りかかったような不幸の片鱗を知ることになっても、なお、そう言えるだろうか? その疑問に答えるには、まだ、いろいろなことを知らないのかもしれない。そして30歳を過ぎた今、少しずつ知り始めているようにも思う。
いつの間にか、他人の不幸にだけでなく、他人の幸福、うまくいった話にまで心を痛めるようになってしまったのは、コインの裏表のように、「うまくいかなかった」誰か(そこに、自分を含めてしまうこともある)について、考えを巡らせるようになってしまったからだろうか。
好きだった人が結婚したとか、知人の事業が成功したとか、そんな周りの情報の一つ一つに、自分はいつもぼんやりしてしまう。妬む気持ちが生まれないことに安堵しつつも、そこに届かないのではないのかと、勝手に不安になる。みじめで、みっともないと言われれば、返す言葉もない。
みっともない人間が生きていくには、結局のところ、歩み続けるしかないのだけれど、その道中には優しい歌が必要だ。他人の幸福で己を蔑むような、どうしようもないことで情けなくなるような人間にさえも届くような歌が。
幸いなことに、自分はJudee Sillを知っていた。
(もちろん、2ndアルバムの『Heart Food』もあわせて聴いてほしい。どちらが優れているかなどと考えるのはバカバカしく思えるほどで、どうせなら2枚とも、あなたの座右のアルバムにしてしまうのはどうだろうか。自分はそうしている)