人が人を癒す一つの形

人が癒されるというとき、それは例えば普段都会暮らしの人が大自然に触れたり、はたまた動物に癒されるということもある。アロマの香りや静かな音楽なこともあるだろう。その形は様々だ。
癒されるという他に元気づけられる、勇気づけられる、あるいは救われるという表現でもよい。

人が人を癒す形も様々あるだろう。話を否定せずに聞いてくれるとか、ただニコニコしてそこにいてくれるということだって癒しとなるだろう。
自分のことをちゃんとわかってくれる安心感というのもあるかもしれない。

それでは、逆に自分のことをわからない人はどうだろう。
「わかってくれない人といても癒されないでしょ」と考えるだろうか。
私はそんなことはないと思う。自分が生きる常識や文脈をその人がわからないからこそ、自分とその人に接点がないからこそ癒されるということがあるように思うのだ。

それは特に自分が自分であることに疲れている人に言えるように思う。
いつも都会のオフィスでパソコンと向き合う仕事をして疲れている人は雄大な自然や川のせせらぎで癒されるかもしれない。普段疲れているものから解放された感覚を与えてくれるからだ。
しかし自分自身の在り方に疲れ、それゆえ救われない苦しみを背負うとき、そんな自分を忘却させてくれるような、まったく違うタイプの人間こそが癒しや救いをもたらすこともあるのではないか。

例えば、自分が何か劣等感をもっていることがあるとすると、それをわかってくれたうえで、「いや、あなたは劣ってなんていない」あるいは「その点で劣っていたとしてもそれはあなたの価値を下げることにならない」このように言われることも癒しになるだろう。これらは自分の価値基準をわかってくれて、その上で寄り添ってもらっている状態だ。

しかし、「なにそれ?」とか「そんなこと気にする人いるんだ?」と言われたらどうだろう。自分の価値基準をわかっていないのだ。
言われ方次第では腹立たしいこともあるかもしれないが、そのことを気にしている自分自身が相対化される。そのことで頭がいっぱいだった人にとっては拍子抜けするだろうし、何か力が抜けてしまう感じとでも言おうか、そんな形での癒しあるいは救いとでも言うようなものがもたらされはしないだろうか。
底抜けに明るい人や天然な人、常識をすっ飛ばして自分の世界を強固に生きてるゆえに違う世界に生きてるような人と話してて元気が出ることもあるだろう。それは自分のあり方、こだわっているものを忘却させてくれるからだ。

忘却だけでなく、価値観が正反対であるような逆転の発想、もしくは宗教でありそうな例えば「悪人こそ救われる」といった価値の転倒あるいは脱臼とでもいうようなものも救いをもたらすだろう。
「悪人のおれは救われないのでは」とずっと気にしていたとしたら、「いやいや、悪人『こそ』救われるのです」と言われるわけだ。
自分がとらわれていたことと真逆なことをきっぱり言われたら揺さぶられる何かがあるだろう。
他にも「貧しい人こそ豊かである」とかだろうか。
転倒もまた癒しをもたらすのだ。


偉い人はいつもヨイショされているがゆえに、「生意気な若いやつ」に新鮮さを感じるだろう。
美人はいつも容姿を褒められることに辟易しているかもしれない。
ヨイショされたり、容姿を褒められることは彼らが存在していると常につきまとうもののように感じられるし、その状態を「脱皮」することもできない。
その状態に疲れている人にとっては、それを忘却させてくれるのは救いとなる。
常識人には、突き抜けて非常識な人や、わがままな人なんかも好かれるかもしれない。空気を読まないで平気にしている人もあてはまる。
癒しや元気づけ、救いだけでなく、人の好き嫌いにも関わっている。

話が合う人、価値観が合う人もいいが、全く違うがゆえに好きになれたりすることもある。それはまさに自分からは見通せない、予定することができないからこそ救いとしてあるのではないだろうか。

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