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ネットの言葉の刃に触れた時、僕が想うこと。
今回書く話は暗めです。
そして僕が捉える感覚だったり考え方を決して正解と言いたいわけではなくて、あくまでこんな考え方の奴もいるんだなくらいの軽い感じで見てもらえたらと思います。
では今回書くテーマは
「反対意見や誹謗中傷、心無い言葉について」
発信者として
XやYouTube、note等様々な活動をしている私。もう発信者として活動を始めて4年になります。
大それた発信力があるわけでもない私ですが
そんな私でも発信をしていると様々なお声を頂く事があります。
大多数は応援してくださったり温かい言葉ばかりなのですが時に厳しい言葉があったり全てを全否定される言葉も時々あります。
言葉を頂く中で決めている芯
まず言いたいのは私にとって悪意のない批判の言葉自体は排除したい対象ではないということです。
もちろん自分が今生きている道の中で考えに考え尽くして選択した事を否定されたり批判をされる事は正直に言えば腹が立ちますし悲しくもなる。
でもそれを全く視界に入れずに生きる事もまたしたくない。
意見の内容にもよるけど、自分が修正出来ることや成長のために参考にしたい事も多々あります。
もちろん生き方や進んでいる道の中で考えに考え尽くした事は人にいくら言われても基本的に方向を変える事はない。それもまたあります。
でも人からどう見えているか、は常に大切にしたいと思うのです。
人に見てもらってこそ自分の道が広がっていくこの活動だからこそ、自分の芯は変えずとも視野は常に狭めずにいたい。
よく言われる事の中で「批判的なコメントなんて一切見なくていい、そんなことを気にする時間が無駄」と声をかけてもらう事があります。
確かにその通りだと思うし気にし過ぎても何もいい事はない。
でもその無駄な時間の中に僕は生きやすくなるヒントがあるんじゃないかなと思っています。
世の中で賛成してくれる人が多数な場合の事も一定数は必ず反対派がいて意見を述べる。
もちろん全て賛成にする事はできないしみんなに合わせられる事もまた無理。
でもそういう意見の人もいるんだよな、と頭の中に入れて客観性を持って生きれるかどうかで生き方の幅はかなり広がると思うのです。
それって時に苦しくもなるし自分の首を絞めてしまう事もある行為だけど
僕は常にそう生きたい。
もちろんお相手の言葉もこちらが聞ける余裕があって建設的にお互いぶつけ合える状況は必要だけど、反対意見自体は大切にしたい。
誹謗中傷は論外
先ほどまでの話はあくまで建設的な反対意見との話。
今からの話は悪意のある誹謗中傷。
こんな一般人の僕でさえ、とんでもない言葉を吐かれる時は少なくありません。
死ねと言われたり社会のゴミだと言われたり。
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