アニミズムとか八百万の神とかダイバーシティとか

「(ばあばが次男の皿に残ったトマトを見て)トマトさんが食べて欲しいって言ってるよ」

それを聞き次男はミニトマトを口に運び顔をしかめながら噛んだ。彼は薄い皮のある食べ物の薄い皮を噛み潰すときが好きではないので普段は食べない。じじばばの家だとなぜだかいうことを聞いて嫌いなものも食べる。この擬人化のようなものは私はあまりつかってこなかったのだけど、じじばばは上手く使いながら孫を操る。「電車さんが泣いてるからお片付けしてあげて」と片付けを促したり、投げ飛ばされたぬいぐるみに「えーん痛いよ」と言わせてみたり。しまいには激しく泣いている最中の次男をケロっと笑わせて食卓に向かわせるなんて荒技も披露されてもうお手上げ。

「全部が生きてるてKくんが言ってた。石ころも机も全部が生きてるって。」

突如出てきた長男の発言が妙に耳に残る。言われてみればそんな感じもするし、それはいい考えだと思ったと長男は加えた。

学生の頃、海外の文化に触れた際に日本の宗教て何だろうと考えた。初詣は神社を詣で、結婚式を教会でとり行い、それでいて自分は仏教徒だ、のような人も多いと思うし疑問に思ったこともなかった。けれど、海外で人びとの一貫した宗教観に触れたとき今まで普通に思ってきたことがもしかしたら滑稽なのかもしれないと、若くキャパシティのない頭は混乱したのだった。そんなとき当時の習いごとの先生から"八百万の神"の考えかたを教わった。古くから厳しい自然を敬い全てのものごとに敬意を払い受け入れながら生きてきたその考え方、ストンとふに落ちた。

先日とある保育園の先生のレクチャーを聞いた。「みんなが違うということをしっかり知って育った子たちが集まればいじめはおこらない」という話だった。「規格が厳しければそれに当てはまらない子が目立ちはじかれてしまう。みんなが違うというベースの考え方を育てるのが大切なのです」と、その先生は言い、久しぶりにこのような柔らかくて芯のある話ぶりを聞いてなんだか涙が出てきたのだった。

子供たちにはもちろん親である私たちにとっても大切な考えかた。息子たちよふたりとも心の芯みたいなものをゆっくりしっかりつくれたらいい。

それにしても「食べて欲しい」とトマトは思ってるのか。思っているか…、捕食者が食べれば種が広がる。生存戦略。

子育てって大学のゼミみたい

もっともっと学べただろうにその若い脳と体力なら…と、大学時代の移り気や集中力のなさ(今もだけど)チャレンジしそびれたことを後悔したりするけど、まだ遅くない。はず。あのときのあの出来事はこういうことか、と今になり学びの本質/理由に触れる毎日。学校とは違う学びがまた始まりそう。

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