パリ24時間(6)二人の老いた少女たち
II
10時半。ポルト・ド・ヴェルサイユに戻ったオルガは自宅に寄らず、直接買い物に向かった。今日は夕食に娘夫婦と婿の両親を招待している。3ヶ月前からの約束で、キャンセルするには相当な理由が必要だ。ちょっと忙しくなるけどやってのけよう。
メインはココットチキン*。とても簡単だし、何よりミシェルが喜ぶ。それから、サラダ、チーズ、デザート。20時にはギリギリ間に合うはずだ。
幸いなことに、オルガの住む集合住宅の1階にはモノプリが入っている。鶏はブロイラーしかないけれど、売っている商品は許容範囲。そこでバター500グラム、タイム、コリアンダー、ロマランなどの生ハーブ、ターメリック、パプリカ、レタス、トマト、きゅうり、今夜食べ時のアボカド、生ハム、チョリゾーとサラミ、鴨パテとフムス、成熟したチーズを何種類か、最後にサンセールを何本かを買い込んだ(一本12ユーロ程度だけど、婿の実家の人たちにはこれ以上のワインはいらない、いらない)。
次に向かったのは、クロワッサンの香ばしい匂いをあたりに撒き散らしているパン屋コーナー。普段なら、ミシェルの好物のシトロン・タルトが固定デザートで決まっている。でもやめにした。今日はこれから3区まで出かけるのだから、マレを通る時に「フレッド」の本店に立ち寄ることができる。思い切って、いつも憧れているホールのパブロヴァを買ってみようか。パヴロヴァはシトロン・タルトよりずっと低カロリーだし、ずっとテーブルを華やかにしてくれる。
それから少し考えて、冷凍パイ生地とレネット林檎2キロ、ヴァニラアイスクリームの大箱を買った。オルガのカートは溢れそうになった。
11時25分、曇った空の下、駅へ向かうオルガの姿があった。
濃いモーヴ色のたっぷりしたカシミアのショール(ポール・スミス)に分厚い上体を包んで、ベージュと黒のタータンチェックの長いスカートの下から低いヒールのパンプスの足を覗かせ、小さな機関車のように急いでいる。戦後すぐの貧しいウクライナからやってきた移民の母と、パリ6区育ちで哲学博士号持ちのオルガでは、着ているものの趣味も材質も違う。でもそのシルエット、仕草、赤い頬、真剣そのものの眼差しは驚くほどに瓜二つだ。
ニコルとの約束は12時。場所はオデオン近くのカフェ「ル・ビュシー」。一秒も遅れるわけにはいかない。ニコルは貴重な昼休みの時間をオルガにくれるのだから。
毎日12時から13時半、リュクサンブール公園でサンドイッチを食べながら文庫本を読む時間をニコルがどれほど大事にしているか、オルガはよく知っている。だけど、「先にお昼は済ませておくわ、お昼休みはあなたの話を聞くことに集中したいから」と言ってくれたのだ。持つべきものは友、とオルガは感動した。それも価値観と懸念を共有する友よね。
オルガにしたところで、相談の時間を一秒も無駄にしたくない。
早く誰かに打ち明けたい、この混乱した胸のうちを。自分の感じているのが、裏切られた悲しみなのか、出し抜かれた怒りなのか、家庭的価値への攻撃に対する義憤なのか、あるい文化がその上に立脚している権力構造が根底から脅かされているという深い怖れなのか、まったく整理がつかない。賢明なニコルなら正しい答えを見つけてくれるだろう。決してあなたの思い過ごしよとか、でも個人の自由じゃないの、なんてことは言ったりしないわ。
午前11時の12番線は空いていた。車輌には最初、進行方向のドアの側の補助席に座ってヘッドフォンの音楽に合わせて体を揺すっている10代の少年と、4人がけの中央の席にひとり座って本を読んでいる年配の女性の2人しかいなかった。オルガは後部の補助席にちょこんと腰を下ろした。モンパルナス駅で、大学生ぐらいの若い男女がドヤドヤと入ってきた。彼らは座ろうとせず、オルガの目の前のポールや手すりをそれぞれ掴んで、立ったまま携帯を見せ合いながら笑ったり話したりし始めた。音楽ファイルでも共有しているのか、誰もが片方の耳にワイヤレスイヤホンを入れたままだった。男女比3対2、でも男子はむしろおとなしく、女子の方が大声で哄笑し、騒がしく小突き合っていた。
いつからだったかしら、とオルガは思った。こんな風に男女の若者が友人グループを構成して周囲の目を気にせず出歩くようになったのは。
70年代初頭、オルガが10代前半の頃、誰もがシモーヌ・ヴェイユの名前を口にしていた。男女平等の運動は今よりずっと激しかった。18歳の頃、待ちに待った避妊ピルが解禁された。それから80年代初頭のエイズの大流行まで、パリは不倫と刹那の情熱が横行する自由恋愛パラダイスだった。ソルボンヌでは教授のほとんどが学生(女子とは限らない)を愛人にしていたらしい。そんな世相の移り変わりを横目で眺めながら、オルガは全てに乗り遅れた。22歳で処女のまま、叔母が見つけてきた無教養な小売業店主と結婚した。逆らうことはできなかった。
なぜ、父が亡くなった後も、目の見えない父が生きていた50年代にオルガ一人残されたのだろう。その後離婚し、大学に行き直し、博士号まで取ったというのに、今でも父の価値観はオルガを縛っている。自由で、欲望むき出しで、しつけの悪い現代の女性たち、権利ばかりを言い立てて義務を果たさない女たち、でもその肢体はますます伸びやかに、ますます美しくなる女たちを見ながら、オルガは同時に羨望と軽蔑を感じる自分を認める。一度でいいから私もわがままいっぱいに生きてみたかったと思うと同時に、浅ましいという思いも禁じ得ない。
娘のアガートのことを考えた。
アガートはオルガの本当の娘ではない。「DDASS(社会衛生省地方局、つまり現代の孤児院)の子供」で、5歳の時に養子縁組し、8歳でオルガの元にやってきた。カトリック教育を受けたオルガは、最初の結婚を通して子供ができず、ずっと肩身の狭い思いをしてきた。なんとしてでも母親になるために養女をとった。しかし、子供がやってきた翌月にはもう離婚していた。でも子育てに悩んだ記憶はない。やって来た時アガートはもう大きかったし、自分の立場をよくわきまえた子供だった。自立心が強く、20歳でBTSを取得した後、家を出て行った。次に帰ってきた時には結婚していた。婿はアガートとよく似たおとなしい青年。郊外の中流サラリーマン家庭出身で、19区のカルフールに勤める。いつか支店長になりたい。20代で、毎月40年後の年金を計算している。
オルガは時々考える。目立たなかった養女はどんな青春を送ったのだろうか、と。どんな憧れを抱き、どんな夢を見たのだろう、恋はしたのだろうか。そして何も知らない自分に驚く。
セーヴル・バビロンヌ駅。ここで10番線に乗り換える。10番に乗るのは大抵セギュールの国立盲人学校に行く時だが、今日はその反対のオーステルリッツ駅行きに乗る。ホームはがらんとして、電光掲示板の緑の光が「次の電車まであと2分」と示している。時計の針は11時45分。十分間に合う。オルガはほっとして、ベンチに腰を下ろした。
ニコルに会うのはどのくらいぶりだろう。去年10月、職場で開催されたオルガの退官パーティー以来だろうか。あのパーティーにはランソンにも正式の招待状を送った。返事がないまま当日が来た。会場には、ランソン目当てに来た研究者やジャーナリストも何人かいた。結局、先生は来なかった。その反対に、ニコルは一番最初に来て、一番最後に帰った。「母には遅くなるって伝えてきたわ。今日は特別な日だもの」と。
メトロの中で、オルガはニコルの友情のありがたみを噛み締めた。持つべきものは友。何が本当に大事なことか、よくわかっている友だわ。
オデオン駅で降りた後、サンジェルマン大通りを横切り、ディドロやルソーも通った「ル・プロコップ」がある通りを真っ直ぐ進んだら、左手に西に向かってサンジェルマンデプレに至るビュシー通り、右手に東に向かってサンミシェル広場に達するサンタンドレ・デザール通り、目の前にボザールに向かうマザリーヌ通りが走る三叉路に出る。その角に「カフェ・ル・ビュシー」はある。 生粋のパリジェンヌのオルガは、昔から変わらないカルチエ・ラタンの真髄のような場所を知っている。カフェ・ル・ビュシーはそんな場所の一つ。野蛮な響きの言語を話し、ビーチサンダルで町を練り歩く(あり得ない)観光客の群れが引きも切らない一角にありながら、わずかな常連が静かに読書している不思議な場所だ。地味なメニューのせいかもしれない。関連地方の出身でなければ誰も知らないワインの名前とオムレツ程度が載っているだけのペラペラの紙切れで、英語の説明すらない。店内のコの字形のカウンターの後ろには、仕切り壁に囲われた静かな半個室がある。オルガは、プライベートと仕事半々くらいのミーティングにはいつもここを使う。 12時を2分過ぎた時、か細い少女のようなシルエットが入り口に現れた。ニコルだ。ベージュのハーフコート、顎までの長さで四角く切り揃え、前髪でびっちりと額を隠した髪型は、15年来変わらない。昔は栗色だったに違いない髪は、麻縄のようにくすんだ色の間に太い白髪の束を交えて、全体的に灰色になっている。 オルガは小さな体躯いっぱいに伸び上がり、丸い腕を胸の前で大きく開いて歓迎の仕草をした。(オルガはニコルにくらべていつも感情表現が直接的で純真だ。)ニコルはちらりと笑みを浮かべたが、その細い体は右隣のカウンターに向けた。カウンターでは中年のウェイターが黙々とテーブルを拭いている。ニコルはおずおずと話しかけた。
「あの、私たちもう食事は済ませていて、飲み物だけなんですけど、問題ないかしら?13時25分まで…」
ウェイターは動作を止めず、きっぱりした大きな声で答えた。
「まったくないよ、マドモワゼル(お嬢さん)」
わずかな客は皆テラスにいて、店内にはほとんど誰もいないのだからいいも何もないはずなのだが、ニコルはあくまでも礼儀正しい。不要なまでに礼儀正しい。いつもこんなふうに、禁止がないところに禁止を作り出し、許可をもらう必要もないところで許可を哀願する。礼儀正しいね、いい子だねとその場にいる男性に頭を撫でてもらうまで、彼女の心は落ち着かない。ウェイターもそれを感じ取ったらしい。
安堵したニコルはようやくオルガの方を向いた。悲しそうな大きな目に、おずおずと、しかし精一杯の喜びの表情を湛えて。
「オルガ」
「ニコル」
一方はコロコロと太り、他方は消え入りそうに細い、2人の老いた少女たちは、手と手を取り合って心からの抱擁を交わした。
62歳のニコル・デュピュイトランは、パリ第5大学医学部図書館に勤めている。オルガとは彼女が博士課程に編入した時からの友人だ。でも、もっとずっと長い付き合いのように思える。それほどに二人の間には共通点が多い。
二人とも年取った父の一人っ子で、二人とも偉大な父親と台所のこと以外何もできない母親の間で育った。また二人とも、一度も花形になったことのない青春時代を通して、学問への抽象的な憧れを養い、普通の少女達が映画スターに恋い焦がれるように、学者や純文学作家のイメージを理想の男性として心の部屋に飾った。「私、勉強が大好きなの」と言う時、ニコルの目は輝く。ディズニーパレードを見ている子供のように。
彼女の体重と髪型はおそらく中学生の時から変わっていない。いつも母のお古の50年代ヴィンテージのコート、スーツ、バッグ、靴(古くて地味でも質は最高)をコーディネートし、その地味な色合いは彼女の存在の一部になっている。母親とは一卵性双生児のように仲がいい。唯一母親のもとを離れたのは、20から22歳までシャルトルの司書学校で学んだ時だけ。卒業後パリに戻り、就職した。勤続40年、遅刻したことも欠勤も一度もないわ、とさらりと言う。周囲の人が思い出せる限りの昔から、サン・ジャック通りの陽の当たらない最上階に母親と一緒に住んでいる。85歳の母がニコルの朝食と夕食を用意し、洗濯をし、ベッドを整える。
もう一つニコルがオルガと決定的に違う点は、オルガは二度結婚したけれど、ニコルは生涯独身だったということだ。同僚に言わせれば、彼女にロマンスの影が漂ったことは一度もないらしい。若い頃の写真には、美人ではないけれど聡明そうで、瑞々しい魅力の娘がじっとこちらを見返している。どうして男性の目を惹かなかったのかと誰もが首を傾げる。もしかしたら心に秘めた恋があって、相手にも告げないまま墓場まで持って行くことにしたのかもしれない。ニコルほどそんな物語に似合う人はいない。
時は、ニコルとその夜々の上を、深い谷間に忍び込んだ風のように、音も立てず過ぎて行ったらしい。彼女自身気がつかないうちに髪は白くなり、視界は暗くなった。ある日顔に細かい皺が現れ初めて、洗っても洗っても拭えなくなった。
女としての魅力という点では、オルガはちょっとだけ、本当にちょっとだけだけれど、ニコルに優越感を覚えている。少女のままのシルエットは確かにスレンダー。でも手足がゴツゴツとして、肌にも顔立ちにも潤いといったものがない。ある程度の年齢になったら、太っている方がまだましかも。
休み時間を抜けてきたニコルがテキパキと口火を切った。
「あまり時間がないわ。ルチアとは何時にどこで会うの?」
再会の喜びの発露もそこそこに、オルガも襟を正し、真剣な声で答えた。
「14時半、グランヴィリエ通りのル・ドルシェステルよ」
待ち合わせ場所を聞いて、ニコルの眉がかすかに開いた。
「例のアフタヌーンティーのお店?だから今日のお昼は抜きなのね!」
「ル・ドルシェステル」、英語読みなら「ザ・ドーチェスター」は、ロンドン本家のティーハウスだ。アフタヌーンティーやハイティーは、ここ20年ほどパリでも人気で、次々と専門店が生まれているが、なんと言ってもここが発信地。
イギリスには「フード」はあるけど「キュイジーヌ」はないと固く信じるフランス人が、始めてイギリスを本場とする高級カフェを受け入れた記念すべき第1号だ。17世紀王政復古期のクラブそのままの内装で、17世紀レシピーに忠実に作られた「正統派スコーン」と「本物のクロテッドクリーム」を謳い文句にしている。職場がこの近くにあったので、オルガは2、3度行ったことがある。それ以来、そのスコーンを夢に見るようになった。
スコーンと言えば誰もが素朴な家庭菓子だと考えるが、ル・ドルチェステルのものは何にも似ていない。純粋さにおいて。豊かさにおいて。一度食べれば誰もがその値段に納得する。まるで小麦畑に降り注ぐ陽光を最高級のバターのエッセンスで固めたようなものなのだ。ピュアな舌触り、芳醇な薫り、細胞を満たす満足感。世界中の炭水化物依存者を一口で黙らせる代物。
ニコルの言った「スコーン」の一言に、オルガの脳裏と味蕾には数年前の至福の経験が蘇り、唾と一緒に笑いが込み上げてきた。丸い顔を綻ばせて、オルガは言った。
「そうなの!せっかく近くまで行くんだし、月曜のお昼なら、予約も入れやすかったし、まあ久しぶりにティーもいいかな、って、それに、キューバ人には純英国式ティーハウスなんて見たこともないだろうから、パリの思い出になるだろうと思ったしね」
ニコルはオルガの手を取って言った。
「こんな時までルチアのことを考えてあげるなんて、あなたはやっぱり優しい人ね」
オルガはニコルの手を握り返し、ゆっくりと目をつぶって開いた。それから小さなため息をついた。仕方ないのよ、生まれつきそんな性質なんだもの、と言いたげに。
「だって今日の約束自体、ルチアのためだと思っているの。先生から何を言われたか知らないけれど、それを信じたって彼女のためにはならないわ。幻想はできるだけ早く打ち破っておくことが大事よ」
それが優しいのよ、と言いかけて、ニコルは口をつぐんだ。
ニコルはルチアのことをほとんど知らない。一度出会っただけで、もちろん恨みなどない。しかし、オルガがルチアは悪だと言うなら、ニコルにとっても自動的にそれは真実になる。それが友人というものだ。ルチアがどんな人間であるかはさほど大事ではなかった。ニコルは友人への忠誠心に駆られてやって来た。
しかし、現実のオルガを前にして、突然、現実のルチアの印象がよみがえった。それがニコルを黙らせた。
ニコルは一度だけルチアに会ったことがある。去年の6月、バカンスがもうすぐ始まるという時のことだ。
その午後、何か調べ物があったのだろう、図書館にはオルガがいた。急に、ルチアが今からここに来るから、と言われた。パリに来ているの、あなたの翻訳者?と聞くと、ええ、南仏で学会があったらしいわ。じゃあ、パリを通る時、是非私の親友のニコルにあってちょうだい、って頼んだのよ。
外には6月の陽光が降り注いでいたが、図書館は暗かった。中世の修道院を大学にして、その半地下の空間を図書室にしてあるのだから当然だ。光は5メートルの高さのある窓からしか入ってこない。ルチアが現れた時、ニコルは薄暗い空間が明るくなったような気がした。その名の通り、ルチアはあたりを輝かせる存在感を放っていた。
なんて美しい娘、とニコルは息を呑んだ。今から思えば、ルチアの輝きは一般的な美貌とは関係がないものだった。それはもちろん、眩しい若さもあったが(ヨーロッパの若者にはなかなか見つからない、新大陸の途轍もない若さ)、それ以上に彼女の個性による物だった。
30代半ばと聞いていたけれど、彼女の整った顔にはあどけなく夢見る表情が浮かんでいて、ルネサンス絵画の天使に似ていた。そのくせ、切長の目は思慮深く、哀しみすら湛えてた。まるで大きな不幸を経験して、黙って乗り越えて来た人のように。これほどの純真さと威厳を一人の人間に同時に見たのは、ニコルにとっては初めてだった。ルチアがそっとその場にいるだけで、人生の全ての悩みが解決するかのように思われた。
その微笑みは限りなく愛らしく、優しかった。すでに切ない幸福感に満たされて、ニコルは天から舞い降りたような娘から目が離せなかった。
その時のことを思い出して、ニコルは思わずこう言った。
「とても魅力的な女性だったわよね、びっくりするほど」
オルガはすぐに反応した。
「エキゾチックなのよ、フランス男の好みそのもの」
「エキゾチック… と言うのが正しいのかしら」
「そうよ、キューバの白人はほとんどが混血だもの。頬骨が高くて、顔立ちもアジア人みたいに平板だわ。肌も私たちのような白さじゃない、透明さがないの…」
チラリとこちらを見たニコルの眼差しに、オルガは少々自分が行き過ぎたと悟って、黙った。
エキゾチズム?そう言われれば、青いほどの艶やかな黒髪だった。ヨーロッパには、スペイン最南端を除いてはあんな髪はない。その上、アンダルシアのブルネットと違い、まっすぐに滝を成して流れ、しなやかな背中の動きに合わせて光を反射していた。その黒髪の中に、細い顎、丸い頬、刻んだようなまぶた、小さな鼻、象牙色の額がくっきりと浮かび上がっていた。その横顔をじっと見つめている視線があった。
「それにしても、ランソンを連れてきたのにはびっくりしたわ」
そう、6月の図書館に現れたルチアの後ろには老教授がいた。オルガはルチアを忘れ、小さく叫んで立ち上がり、直立不動の姿勢をとった。その間にランソンはメディアでよく見る作り物の笑顔をこしらえて、鷹揚な態度で一歩踏み出し、朗らかな声で言った。「所用で近所にいたもんでね、昔通ったこの図書館がどうなったか見たくてお邪魔したよ」。しかし、ニコルはその寸前の彼の顔を見過ごさなかった。
オルガは修正した。
「連れてきたんじゃないわ、たまたま近くにいたって、先生も言ってたじゃない」
ニコルは黙っていた。あの時のランソンの目には、ニコルが感じていたのと同じ憧れと幸福の期待があった。老教授がルチアから離れられないでいるのは、誰が見ても明らかだった。まるで少女の影に見えない鎖で繋がれているように。老人の落ち窪んだ目は少女のうなじに渦巻く黒髪を凝視し、そのすぼんだ口元には空気を介したキスの動きがあった。ルチアがオルガに挨拶をするために教授から離れると、彼の顔には苦悶がありありと現れた。
ニコルはそれを思い出しながら、こう言った。
「教授は随分入れ込んでる様子だったわね。クレールと出会った時もあんな感じだったのかしら」
「ルチアとクレールじゃあ全然レベルが違うわ。クレールはとにかく優秀だった。知的な会話は前の奥様では無理だったでしょうしねえ。もちろん、若くて美しいということもあったと思うけど、あの二人が出会うべくして出会ったのは、知的に対等だったからよ」
「そう、でもルチアのフランス語には驚いたわ」
「流暢よ。でもそれだけよ。彼女は優秀だけど、クレールみたいな学者じゃないわ」
ニコルは、突然オルガがクレールを持ち上げ出したのには、いささか不意をつかれた。普段オルガはクレールをけなすことが多いからだ。
「じゃあ、教授はルチアには行きずりの興味しかないって思うのね?」
「ほら、男性には一風変わったものを収集する癖があるでしょ?ルチアみたいなブルネットのちんちくりんを先生が本気で相手にするわけないわ」
「あら、でもあなたも、ルチアと知り合ったばかりの時は、すごい美人だって言ってたジャないの」
「もちろん可愛いと思うわよ。若いし。私は男じゃないから女には色んな美人がいると認められる。でも古いタイプの男ってそうじゃない。心の中では優劣をつけている。ランソンなんて特にね。彼は女についても完全にエリート主義で、ほとんどファシストなのよ。お腹の中では金髪碧眼しか女じゃないと思っているわ、絶対」
「あなたさっきクレールと先生の関係は知的な連帯だって言ってたけど… じゃあ、やっぱり外見重視ってこと?」
ニコルはオルガの撫然とした表情を見て、からかい過ぎたと思った。そこで、言い方を変えて、オルガにもう少し冷静になってもらおうとした。
「私が言いたいのはね、男の人って、簡単な浮気の場合、奥さんと同じタイプの女性を選ぶものよ。こんなふうに正反対の女性が出てくる時って、大きな変化が起こってることのしるしかもしれないじゃない?」
オルガは舌を巻いた。結婚も恋愛もないニコルが、どこでこんな知識を身に付けたんだろう?小説?映画?なぜ、今日はこんなふざけているの、ニコル?あなたはもっと真面目な人だと思っていたのに。
「先生はいつも新しい領域を開拓し続けている人だから、精神面で大きな変化があっても驚かないわ。毎日子供の世話で疲れているのかもしれないし。でもそんな変化に女は必要ないはずよ」
「でも、知性とは関係のない幸福ってものもあるわ、そうじゃない?」
オルガはかっとなった。ミシェルの笑い声が耳に響いた。
「幸福?家庭を不幸にして何が幸福?単なる体の関係をロマンチックな運命の恋みたいに感じてるなんて、滑稽よ!」
追い詰められたオルガはようやく本音を口にした。
「クレールの時だって、周りが気がついた時にはもう遅かったのよ!クレールはすでに今の家に住んでいた。先生も彼女も、大学では何食わぬ顔して研究の話をして、みんなを騙していたのよ!」
だから、今回は早めに手を打って、あらゆる気持ちの芽を摘んでおこうというわけ?やろうとしていることの残酷さをわかっている、オルガ?ニコルはそう思ったが、口には出せなかった。
「そうね、でもそれはあなた… いえ、私たちには関わりのないことじゃないかしら」
ああ、またしてもこの言葉。オルガの目には深い失望が浮かんだ。それを見て、ニコルは自分が言えるのはここまでだと察した。そろそろこの会話を引き上げないといけない。何とか落とし所を見つけて。
「でも確かに、南米とパリじゃ距離がありすぎるわよね、どうせうまくはいかないわ、ルチアも貴重な若い時間を失うことになるわね」
「そう… そうなのよ、だから今日、ルチアには親身の助言を与えてあげたいの、パリの思い出と一緒に」
「それはとても親切なことよ、オルガ」
でもお願いだから、とニコルは祈る気持ちでひそかにつぶやいた。あんな無垢な少女の夢見る魂を傷つけることだけはしないで。
一方オルガは、思った通りの支援を受けられなかったことに拍子抜けしていた。今日のニコルはなんだか冷たい。まさか不倫を美化したりしていないでしょうけれど。やっぱり、結婚していない人にはわからないことだったのかしら。
時計は13時10分を指していた。
(IIIに続く)