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『完全無――超越タナトフォビア』第二章


そのときしろが、ポテトのLサイズを三つほどトレーにのせてわれらがテーブルへと戻ってきた。

大海原を縦に切り裂くこともなく、十字架を背負うこともなく、ちいさくてぽちゃとしたてのひらに等身大のちからを加えて席についた。

三つのその食べ物そのものにきつねくんは注目する。

それらのポテトという名の物自体同士はとても似通ってるのに、チビ・ウィッシュボーン・しろの三匹の犬たちはまだ発見されていない素数といった風情でオリジナリティを保っている。

アリストテレスとアリストデモスとアリストファネス(彼らは、時間があると仮定すれば、ちょっと昔のギリシア人である)という三者が、いまだ発見されていない偶数の完全数を思わせるのと同様の意味で、チビたちは哲学的である、とそんな思考がきつねくんの脳内で詩的旨味を醸し出し始める。

神話的な、秘教的な、それでいてシャイニングな三位一体トリニティでもあるんだな、ときつねくんはチビたちの顔を見ずにつぶやいた。

そうしてチビたちは食卓に着いた。

あらかじめそうすることが決定されているかのように。

マックの店内にわたくしたちだけが現存在として投げ出されてしまったのだろうか、他のお客たちの存在は、にわかにその輪郭を電子の雲よりあいまいななにものかへと変容しつつ、ただの眼前存在へと存在論的に格下げされてしまっている。

しろは、エア・オセロってなにぃ? とチビに真剣よりもさらに真な刃先でチビに問いをきらめかせる。

ウィッシュボーンがわたくしきつねくんをチラ見する。

それはほんとうに「チラ」であって、仏教における刹那滅よりは幾分か間のある幅を持っていた。

きつねくん
「さて、はじめよう。自らの体験、体感から究極の哲学を手に入れた、新世代のウパニシャッド(奥義書)としてこの作品は「救いの哲学」としては有効にはならないかもしれないが、考える葦程度の思惟にはなり得る可能性を秘めている。

既存の哲学と根っこの部分ではつながっているとしても、花の咲き方においては美しさと悲惨さとがこの作品ではそれらよりも抜きん出ていることを保証しよう。

チビたちは店内で適当かつ奔放に耳を向けてほしい。

読者の方々は適当に読んでいただければ幸いである。

この作品は音声であり文字であり、とある人々にとっては妄想であるが、著作者はその位相を問わない。

そしてこの作品は哲学の「究極の問い」に答えるための取り扱い説明書でもあるのだが、その意味においては文学性は皆無に限りなく近い代物であるということをご容赦いただきたい」


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