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『完全無――超越タナトフォビア』第六十四章

宇宙とは世界そのものとされることが多いのだが、この作品では便宜的に、世界の属性の一面として宇宙をまず定義したい。

さて、弱かろうが強かろうが、観測できようができまいが、宇宙論における「人間原理」なる傲慢は人間たち自身にとっても、当てにはならない。

人間たちの創り出した記号と宇宙との蜜月、そのような浮き名を宇宙が期待しているわけではない。

なぜなら、宇宙とは「世界の世界性」同様に、つまり「世界の世界性」に対する有無のあわい的随伴現象である限りは、すでに完了した「抱き締め合い」の状態にあるのだから。

すべては、あらかじめ、遅し、である。

科学の足は遅すぎる、という諦念を、西洋のとある詩人が書き記したが、わたくしに言わせれば、あらゆる知は「世界の世界性」に追い付くことができない。

人間の存在だけに依拠した宇宙論など、ウイルスに失礼ではないだろうか。

当然、宇宙が「ウイルス原理」によるファイン・チューニングを被っている、などという言明も、おふざけ言語ゲームとしての意義しか持ち得ないが。

宇宙に対して、不愉快極まりない主観的表現、つまり「弱い」、「強い」などというも脆いことばで基礎付けようとする態度は、【理(り)】に辿り着くための方策を自らうっちゃるだけの迂回である

宇宙とは、人間たちの観察領域を――あらかじめすでにこれからも――超越しているはずである。

地球内時空だけが宇宙ではないように、地球外時空だけが宇宙なのではない。

マクドナルドの店内で世界を語るわたくしもすでにして宇宙そのものである、と正当化することはできる。

それがことばだ。

だがしかし、ことばでは把持できないなにものかとして「世界の世界性」が存在するように、宇宙というサムシング・グレートも、ことばで定義付けしようとすればするほど、ことばを操る生命体の手許から解き放たれてしまうことだろう。

宇宙という事象を、現象として、感覚器官を通して、主観的に、その目で見、その耳で聴き、その鼻で嗅ぎ、その舌で味わい、その皮膚で触れようと、そうでなかろうと、「人間的スケール」の論理という武器は人間たちにしか通用しない。

そのような主観性という武器によっては、宇宙はびくともしない。

むしろ、人間たちがそのような貧相な武器で傷つけ合うというストーリー展開に陥る可能性が大きい。

宇宙そのものが人間たちだけのために用意されているなどと考えるだけでもおぞましいのは、わたくしが狐族だからであろうか。

生態系における強者ではない狐にとって人間たちとは憧憬に値する種族であってほしいものだ。

しかし。

人間たちは人間たちを甘やかし過ぎた。

人間たちは人間たちを騙し過ぎた。

おそらくそれは、知への飽くなき欲望と、知を失うことへの恐慌からの逃走を、独善的な理想として掲げ続けたことへの罰ではないだろうか。

人間たちは知を愛し過ぎたことで、自らの過信を甘やかしてきたのだ、歴史的時空の中で。

生態系に君臨する王者としての尊厳が逃げ道の確保を要請したのかもしれない。

人知の及ばぬサムシング・グレートに対する正しい畏れからの逃げ道を確保するために、宇宙の「人間原理」という正当化を、人間たちはでっち上げざるを得なかったのだろう。


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