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『完全無――超越タナトフォビア』第二十八章
さらに、ウィッシュボーンがきつねさんの代わりに述べさせていただきます!
是と非とを超えたる何か、つまり全一的・総合的な何かをこしらえようと人間はやっきにならざるを得ない状態だが、是と非という対義関係は、世界の果てが存在しないのと同様にあり得ないものですし、総合的な何ものか、つまりは部分が全体の一部を担うことで成立している全一性、そういったものもないのです。
合わさることで成り立つものは一切ない。
ある、だけである、ということ。
ですから、ある、ということは、分離・分解することはないですし、そもそも分節を持ち得ないのですね。
包丁を入れても入れても一向に切れ目のできない蒟蒻のような「ある」。
ある、ということは、変化という概念を必要としないのであって、変化の側が世界をいくら欲したところで、世界はかたくななまでに無変化なのです。
科学的な解釈においては、つまり論理的整合性の観点から、世界の「ある」性の頑固さを鑑みた場合、そのような屁理屈は到底あり得ない、というよりも常識的に認められないことかもしれませんが、きつねさん式の究極の【理(り)】に認識者がもし達しますと、変化や変化の構造、変化のプロセスなどから意義が取っ払われる可能性がかなり高いと思います。
任意の時空におけるある一点を想像してください。
それが無のような点であろうと、位置だけを持つ点であろうと、エネルギーだけを持つ点であろうと、点であることの確からしさからはほど遠い点のであろうと、未知の、未定義の点であろうと、ほんとうに鉛筆でちょこんと書いた点であろうと、世界の「ある」性のすべてをそこに凝縮するという発想すら意味がありません。
すべての変化が時空に束縛されようと、されなかろうと、「ある」はすでにあらかじめ集約されてしまっているのですから、何を今さら、個々の事象に分節してゆく必要があるのでしょうか。
考え得るあらゆる記号に等号を織り交ぜて、あらゆる存在者におけるあらゆる変化量を、無限の視点から、無限の公式を導き出すことで定義し得たとしても、人類万歳、動でも不動でもないはずの世界における「世界そのもの性」にとっては、何もないことと同義であることに落胆するしか術(すべ)がないのです。
変化のすべては意識が捉える現象の表象として存在しているじゃないか、という反論は簡単に予測できますが、無の中で変化がメタ的に変化そのものをいくら見据え続けたとしても、「ある」という名のその一点(点とは言っても、数学的な点というよりは無の点)ですでにあらかじめ起こってしまっているのですから、変化のように感覚されたとしても変化だと仮定してはいけないのでしょうね。
変化など断固おことわり! というスタンスに落ち着くようになれば、一段階アップしたような気分になれるのかもしれませんが、ウィッシュボーンには少々ハードです。
それに、この章における変化云々についてのお話に対しては確固とした自信を抱けずにおります。
いずれ、きつねさんが何もかも解決してくれることを望みます!