『完全無――超越タナトフォビア』第五十五章
何をどのように心配しようとも、何をどのように楽観視しようとも、何をどのように苦しもうとも、何をどのように闘おうとも、何をどのように決意しようとも、何をどのようにあきらめようとも、何をどのように活気付けようとも、ただ「ある」だけのわたくしたちは、そのように「ある」だけである。
先行する何か、追随する何か、最良の何か、孤高の何か、絶好の何か、貧しき何か、良心的な何か、隠蔽された何か、笑止千万な何か、気位の高い何か、気前の良い何か、腹黒い何か、嫉妬深い何か、理想的な何か、嫌悪すべき何か、強情な何か、徹底的な何か、危険な何か、扇情的な何か、皮膚的な何か、冷酷な何か、英雄的な何か、喜ばしき何か。
あらゆる選択肢をいくら用意しようと構いはしない。
あらゆる方向付けのために言の葉を地に敷き詰めても構いはしない。
「世界の世界性」に対しては、癒すこともダメージを与えることも叶わない。
そのように――あらかじめすでにこれからも――あるだけであって、何かが何かを成したから、何かが何かとして定義される、という関数は世界には、ない。
何かをしてやろう、という意志を持つ(持っていると思い込む)のは人間各自の自由ではあるが、その意志が何かを産出するということはない。
何かが変化することによって、何かが化け学的に新生することもない。
何かの原因によって、何かが何かとして結果するということもない。
その状態に――あらかじめすでにこれからも――ある、ということだけしかない、と言ってしまえば話はそれで終わりか、といえばそういうことでもない、というところが難儀ではある。
究極的には「ある」という二文字をおもい、すぐさまその二文字が消去されていることに気付くこと、それが【理(り)】を体感することである、というところまでなら、この段階でも示してよいとわたくしは判断する。
あるがままの状態すら、ない、それが完全無、そして完全有の純粋な相(ただし、幅のない相)だろう。
一般的な意味合いにおいても、無と有とが流動的に相関するということはないのだから、完全無と完全有とを「別物」として取り扱うことはできない。
世界を事象という狭義的な概念で把捉しようとしても、掴むべき地平線など、世界には、ない。
世界をモノやコトで把捉しようとしても、観測できる点はひとつもない。
それゆえ、特異点なるものは存在し得ない。
裸の特異点も、着衣の特異点も、存在し得ない。
最も短い何か、最も長い何かもない。
最も小さい何か、最も大きい何かもない。
世界、世界性、完全無、完全有、【理(り)】、それらは互いに恵みを供与するような関係性を持つことはないが、この作品においては、それぞれがそれぞれのことばの意味の限界まで自身をアピールすることになるだろう。