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『完全無――超越タナトフォビア』第二十九章

さらにさらに、ウィッシュボーンは言の葉を集めては花火のようにこのマックの店内からすべての読者様へと撒き散らしたいと存じます。

時計の時間に慣れ過ぎているなら、生活の中に、時間に関わるすべての言葉を放逐してしまえばいい、でもまあ無理だろう、生き物には時間論的に進化というものがあると仮定すると、歴史的堆積物に厚みが増せば増すほど、窒息するほどに真理の先にある何ものかからは遠くなってしまったのだから、と語気を強めておっしゃられたこともありました。

そういえば、そのときのきつねさんの発言を今思い出しているウィッシュボーンですら、哲学的に分析してみますと、今という無の点において「ある」だけであって、一般的つまり常識的な科学的根拠に基づいた時間というアイテムによって、存在者としてのウィッシュボーンのアイデンティティを把捉しようとしますと、とたんに無であったはずの点が分節を開始し、過去や未来、そしてそれらの繋ぎ目としての現在などどいう、多分に幻想的かつ蠱惑的な、それでいて本来的には把捉不可能な概念が、世界をあたかもあらゆる分節によって切り刻まれるための壁でもあるかのように見なしつつ、それら現在・過去・未来という得体のしれない存在者が壁を分節しては、その不気味な顔を世界内にのぞかせる、などという顛末になってしまうのです。

そのような無限かつ夢幻のディストピア的じゃれ合いを、あり得ないもの認定することがきつねさんの必殺技の一つでありますが、なぜ人類のみなさんは不吉なる時計などという怪物を生み出してしまったのでしょうか。

ウィッシュボーンは実は過去に俳優という特殊な職業に従事していた経験がございますが、各スケジュールの構成表に如実にあらわれる時計的な時間の制約というものがたいへん苦手でございました。

あらゆるテレビ番組から時間という枠組みを取っ払ってしまったら、どんなに心地のいい生活空間になるでしょうか。

視聴者の方々にとっては予約録画するのにたいへん不都合な話ではございますが。

(ええ、ごにょごにょ……)。


いやはや、それにしても、このように小説の中に登場することで、リアル(ちまたで乱用される一番安っぽい意味でのリアル、つまり何らかの対義語が存在することで成立するところの「リアル」であって、本当ならばあまり使用したくはありませんが)の時間を、ウィッシュボーンそのものが時熟させつつ体感として同時に文章そのものになってゆく、この心地よさ。

このような経験は難儀ではありますが、まるで自分自身の主体性があるようで、ないような、そんな不思議な浮遊が愛おしく思えるのです。

ウィッシュボーン、要するに君は何を言いたいんだい? と読者の方に詰め寄られた気がいたしましたので、お答えいたします。

現在が未来をつくり、未来が過去をつくり、過去が現在をつくる、たとえば、車輪が地面に接する点を現在とすると、回転を始めることで、その回転によって車輪が地にずんずん触れてゆく部分が増えてゆくでしょう。もともとは未来であったところの地に触れていない車輪の部分も、回転によって過去となる。

その過去となった車輪の部分は常に回転を始める端緒の点として現在である。

そして、回転を始める最初の部分からすると、その他の部分、すなわちいまだ地をずんずん踏んでゆく部分というのは、現在にとっての未来であり、現在がつくりだしてしまった未来の部分なのです。

現在のエネルギーが未来に移動し、そのエネルギーでもって未来は過去をつくり、過去のエネルギーが移動して現在をつくる、といった環状的エネルギーとしての時間という構造は、「世界の世界そのもの性」には存在しないということなのです。

きつねさんは、アンチ円環主義者なのです!

チビ
「ふたりとも、文字盤のない腕時計でいいんじゃないかなー? びっチビは腕時計とか三つぐらいつけちゃう派、絵柄は一つ目がチビの顔、二つ目がチビの顔、三つ目がチビの顔かな」

しろ
「しろ、しろはぁ、しろのおへそがとけいさんじゃないかな、だっていま、とけいさんのおひげが、しろの……おなかんなかぐるぐるまわってぃるぅ」

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