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『完全無――超越タナトフォビア』第三十八章


※(話者がウィッシュボーンからきつねくんに代わるという、つまり、政治的秩序を変更することのない、権威主義討伐による維新的な意義を持たない、陳腐なイデオロギーを根拠とする原理主義でもなく、単なる究極革命的であるところの章が、この第三十八章である。)

(ソール・ライターが写真に収めるべき、いやロバート・キャパがちょっとピンぼけることなく驚愕のあまり膝から崩れ落ちてしまうべき断章であろう。)

ウィッシュ、大変ありがとう。

次はわたくしが語ろうと思う。

小説、もしくはエッセイ、もしくはチラシの裏の落書き、もしくは詩的雑文における主人公が「誰であるか」なんてことを同定するのは、大層ダサいことなんだ。

さて、
原因の中には、すでに、結果が含まれている、ということはない、とまずはこの作品全体に対してジャブを繰り出しておこうか。

まず、原因と結果という区分けは世界そのものには必要がない。

なにかがなにかを含むということはない。

原因の中に結果が部分集合として含まれる、ということはない。

原因と結果は同時的である、といってみても、究極的な【理(り)】からは恐ろしく遠い。

時空の湾曲率が無限大であることよりも果てしなく遠い。

世界は原因や結果という対義語関係を情報として格納していない。

なにかとなにかが同時に起きる、ということはない。

そもそも時間というものは「世界の世界性」においてはパラメータとして用を成さない。

もちろん、原因と結果というふたつの概念も根源的には成立しない。

くどくどと繰り返して非常に申し訳ないのだが、原因の中にはすでに結果が含まれている、というシミュレーションもない。

それを、因中有果(いんちゅううか)という四字熟語でひとつの仮説的真理として信用する方々も地球上のどこかにはいるかもしれないが、詩狐(しぎつね)や詩犬(しいぬ)や詩人の辞書には採用され得ないだろう。

原因と結果が同値、つまり対等であり、通時的にも共時的にも相同であるということも成立しない。

なぜなら、通時的・共時的なあらゆる概念は世界そのものを定義するための有意義な属性としてはあらかじめ失格であると、わたくしは推論するからである。

なぜ失格なのか、それはこの作品が追々迫るべき課題ではあるのだが。

もちろん、どのような生命体が、なにをどのように信じようとも結果的には正しくもあり誤りでもあり、もしくはその真逆でもあり、自由であり、不自由であり、条理的かつ不条理的である、などなどといくらでも表現可能ではあるが。

と、ちょっと上から目線で張り切ってしまったが。

ま、たまにはいいかな?

(いいともー! と、チビたちの近い声。)

(それはそれは宇宙に存在するすべてのダークマターを手のひらの上で遊ばせちゃってるくらいの近さである。)

(続いて、てきとーによろしくねー、まあ、てきしくー、という声が聞こえた。)

(これはなるほど、ジンジャーエールのMサイズを飲み干したばかりのチビの声でありました。)

(バベルの塔の頂点より舞い降りてくるはずのない、天使の羽の端正な重なりのような声だ。)

(この声を皮切りに、わたくしのお話はまたしてもどっしりと再演するのでありますが、まあ畢竟、何度も言いたいことは、完全無という器の中に完全有がすっぽり納まるなんていう安易なイメージからは遠いところへと飛翔したいということなんだが。)

(と、ちょっと先走りしてわたくしが漏らしてしまったけれども、読者のみなさん、後々の展開だけでなく、思いも寄らぬ転調にも期待してみてくださいね。


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