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『完全無――超越タナトフォビア』第二十章

では、稚拙ながらもお話を再開させていただきます。

宇宙のはじまりを発見し、その起源があることで、今という痕跡があるのではなくて、もし仮に、何者かが宇宙のはじまりを発見したといって大騒ぎするような、そんな事態がニュースとして全世界に流されたとしても、その現象を脳の中で再現することしかできない生き物にとっては、宇宙のはじまりという科学的現象に対する科学的表象という人間的主観が「ある」という仮説と、はかなく戯れているだけであって、世界においては、何らの「あらわれでるもの」など「ない」、ということです。

しかしですよ、宇宙にははじまりもおわりもない、という思想がきつねさんの真のご意向なのですから、そもそもそのような発見そのものから何らかの意義を見出すことが不可能な案件かもしれないわけでして……。

「あった」という事象はなくて、ただただ「ある」だけだ、ということ。

どこかの誰かがどこかの過去において何かをどこかで発見した、ということはどこの誰にも証明できない、ということでもあるのです。

ただただ「今、ある」ということが「ある」だけです。

もちろん、きつねさん的には、「今、ある」ということは「今、ない」ということと等価だ、というレベルにまで話を持っていくのだとは思いますが……。

「何かした」ということは「今、何かする」ということとはどのような縫い糸をもってしても、つながることはない、ということでしょうか。

そして、何かが「何かをする」ということも、実はきつねさん的にはあり得ないことでして、何かが「ある」だけであり、それは完璧にたしかな「ある」ということだけが「ある」のであって、それ以外には何もないということ。

その完璧さがあらわしているのは、実は常識的な「ある」という規定に留まることではなくて、もっと爆裂な、もっと残忍な「ある」の質のことだと、ウィッシュボーンは推理しますが、今の段階では、なんとも定義しかねる「ある」なのです。

「ある」とはやはり完全に無なのでしょうね。

ですから、宇宙のはじまりと宇宙のおわりを定めたりすることには意味がありませんし、何世代かに渡って受け継がれてゆく遺伝子、生命の舟なんてものにも意味がありません。

ただ、そのような今の状態そのものが存在者に現前として到来することもなく「ある」ということだけが、まったく意味のない不合理なものとして、つながりや因果関係、相関関係を絶した状態を被ったまま「ある」だけ、だそうです。

もちろん「今」という単語は、主観に支配されがちな生き物に対して、便宜的に媚びを売るような、やましい優しさによって人類が使用しているだけであって、感傷や義理人情や忖度なく「今」という名詞を解剖するならば、「今」という存在すらも、【理(り)】にとっては無と戯れるごとしだ、ということも、きつねさんは常々おっしゃっているんです。

「知恵の実」を食したのは人間だけだといわれてますが、きつねさんの狐族の一部の方々や、ウィッシュボーンの属しております犬族の一部の方々も何らかの、その種族の神話特有の「知恵の実」というレトリックを食べてしまったのかもしれません。

ところで、しろさんは「アイスの実」という氷菓子が好きなのですが、「知恵の実」がどのような味だったのか、まだ食べたことのないしろさんなら気になってしかたないのではないでしょうか。

そんなウィッシュボーンは「知恵の実」よりも「知恵の輪」の方が好みではありますが……。

ちなみに、きつねさんの【理(り)】によりますと、瞬間という概念も本来は現象としてないそうです。

現象そのものがないのですから、あらゆる瞬間が存在することもできないわけですかね。

ですから、とてもとてもちいさい瞬間瞬間で、生じたり滅したりということも、ないそうです。仏教における「刹那滅」という概念もないそうです。

「刹那滅」における「刹那」を「無」に置き変えたとしてもそのようなものが連続するということはあり得ないそうです。
ただし、断言しているようで、断言していないようなニュアンスを匂わせるところが、きつねさんのいいところであり、わるいところでもありますね。

真理を超えたものだとは思っているそうですが、それはそう思うところの自分がただ、現象的にではなく「ある」だけなのだ、ということです。

変化に身をまかせ、変化を忘れようとする、というよくある思想とは微妙に違い、変化ということがない、何かと何かとを=(等号)で結ぶ、ということがない。

たしたり、ひいたり、かけたり、わったりすることもない。

何かが何かより大きいということもない。

何かが何かより小さいということもない。

何かと何かを記号であらわし、比較することもできない。

何かと何かとの関係性を方程式をたてることによって表現することもできない。

ゼロという何かというものもない。

いやはや、述べれば述べるほど、きつねさんの志向する【理(り)】からは遠ざかっている気がいたします。

あと、きつねさんは、対義語を一切認めません。

天と地、陰と陽、有と無などなど、対義語で対称性を確保するような態度は気にくわないそうです。

チビさんたち、いやはや難しいですよね。

話をしているウィッシュボーンですら何を言っているのかよくわからずに今こうしてきつねさんを前にしています。

きつねさんいわく、人類が変化だと決めつけているすべての物理的現象も、人類がたとえすべて消滅したとしても起きているだろう、と想像できる、宇宙のすべての変化も、ないそうです。

はじまりやおわりを前提として認識することがそもそもの誤りであり、はじまりやおわりという区別を廃棄し、人類が時間による変化だと仮定しているすべての因果関係や確率的な現象の流れを、絶対的な、枠も幅ももたない固定されたかのようにみえる額縁の中で、大きさをもたない点のあつまりとして氷結したかのようにみえるもの、そしてそれらの総体が表現されているような絵、しかも、無という名をもつにふさわしい絵、そのようなものを、まずは、つまり初歩の段階においては、イメージすべきかもしれません。

そして、時間とともに、あらゆる空間という場における変化量だと考えられているところの因果関係も確率的な現象も、その無という名の絵のような得体のしれないなにものかにおさまってしまう、ということを表象として、まずは認識することが大切なのではないでしょうか。


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