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『完全無――超越タナトフォビア』第一章

冬なのか春なのか、そんな些細な違いはどうでもいいような、大いなる晴れの日の大いなる正午に、チビたちときつねくんが、いつもの駅の、いつものマックにやってきて、いつもの角の席で、それぞれがそれぞれとして一番落ち着く姿勢で、わちゃわちゃと、そしてほっこりと、そりゃあもう彼ら特有のわちゃわちゃとほっこりの光たちに包まれて、時さえも時を忘れてしまうくらい、超自然体で戯れている。

チビ「たち」と省略してしまうと、チビ以外の存在者が何者なのかわからないのも口惜しいので、ここに記しておく。

チビ以外の何者かの名前は、ウィッシュボーン、そして、しろという名を持つ二匹の犬である。

三匹の犬の中に一匹だけカタカナで名指しされる存在者がいると、外国出身の犬なのではないかと勘繰ってしまうが、まさにそうである。

元人気俳優であるところのウィッシュボーンは、この日本において生活し、
わたくしきつねくんを師匠と呼ぶ利発なイケメン犬であり、もはや日本語に熟達した彼は、和犬と言ってもよいほどに和犬であり、そんじょそこらの和犬よりも、日本のことに興味津々なのである。


「さすがはジャックラッセルテリアで、スリムで、日本大好きで、テレビで俳優もしたことのあるウィッシュ、やるね」
と、膝を抱えきれないツァラトゥストラの吐息ほどの熱量で、きつねくん(実はこの作品の主人公なのだ!)が、褒める。

「き、きつねさん、とてつもなく説明台詞ですよ。
読者の方々がゲンナリいたしますよ」と、プラトンがイデアの洞窟の比喩の発想を見つけたその瞬間に立ち会ってしまったかのように、ウィッシュボーンが応じる。

「問題はない。
古今東西散見されるパターンだ。
情報を小出しにしつつ、こっそりと、いつのまにかキャラクターを紹介しているという自然体を装った、創作マニュアルばりばりの作為に出くわすほうが、わたくしはげんなりする」と、わたくしきつねくんは睨みを利かせる。

「さて、チビとしろは小難しい話は嫌いらしい、ということをここで記しておこう。
チビとしろの――紀州犬同盟――はお笑いの番組、とくに『よしもと新喜劇』が好きらしいんだ、いやはや手強し!」
と、理論物理学者スティーヴン・ホーキングが、宇宙のはじまりとおわりについて語り尽くせぬ際の、その眼差しのような口調で、わたくしきつねくんは幾度も感心し、さらにこう続ける。

「チビは読者モデルも務め、<犬雑誌>の表紙も(たまに)飾るレベルのアジアン・キューティー・ピュアフルな五歳だ。
毎年誕生日がくると五歳になるのだ!
おめでとう!
ウィッシュ(ウィッシュボーンの省略形)は毎年三歳になるのだったね、そんでもって、しろは毎年一歳になるのだった。
みんな、おめでとう!
誕生日なんてどうでもいいじゃないか。
毎日、おめでとうさ!
そういえば、しろは食べることと昼寝を好み……」
と、ここでチビが嫌味なくわたくしの無駄口に割り込んでくる。

「きつねくん、前置きはいいから、その難易度高そうなおはなしさー、そこそこユーモアある感じで、してみてよー」
と、戯曲『青い鳥』の続編『新・青い鳥』の新しい主人公に選ばれたかのように、チビがはしゃぐ。
そのはしゃぎ方といえば、どこか石切り遊びに成功したおさなごを思わせる。

「しろ、ポテトみっつたのんでくるぅ」
と、宇宙には質量などまるでないかのように、続いてしろがどぼっと言葉をこぼす。
そうして突如として、「しろ」という平仮名の文字そのものになってしまったかのように、こころを崩してまあるくわらう。
しろの前では、すべての悪も即座に五体投地を始めることだろう。

「しろは無邪気だから、しろこそほんものの神様になるべきだね。
それからチビ、興味あるみたいだね、わたくしのトンデモ話に。
アスパラガスの袴は、食べるべきか、そうすべきではないか、を語るわけではないのだが、みんな大丈夫だろうか」
と、わたくしきつねくんが、口のかたちをちくわの輪っかのようにして小さく言い、そうして口がその定位置から逃走しそうになるのを、左手の親指と人差し指とで挟んで防ぐ。

「ウィッシュボーン、最近は東洋の思想を中心に西洋哲学の入門書などを、たくさん机の上に積んでいます。
逆立ちすると、ウィッシュボーンのかかとの位置と積まれた本のてっぺんが重なります」
と、「我思う、ゆえに影あり」といった感じの、謎めかしきトーンで、眼の玉を鈍く光らせながら、ウィッシュボーンが突如として、マックのテーブルの上で逆立ちをしてみせる。

そこで、チビがみんなの前で独り言らしからぬ独り言、まさに、この作品にとっては研ぎ澄まされたエアリプのような独り言を言う。

「んー、チビはしろくんと<エア・オセロ>でもしようかな」


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