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完全無――超越タナトフォビア』第九十六章


さて、人間たちは完全無を理想化することで単なる有を完全有として認識したがっているとも言える。

だがしかし、人間たちが存在せずとも完全有は完全有として完全に無である。

なにゆえ完全有は完全無であるのか。

完全無には意志はなど無い。

完全有にも意志など無い。

完全無が完全有を要請することも、完全有が完全無を要請することも無い。

なぜ「something」があると思い込んでしまうのか。

それは、世界そのものから要請されないからこそある、とも言えるのではないか。

なぜ「何か」があるのか。

それは完全無を完全有として認識し得る能力を絶対的に信頼してしまうからだろう

それでは世界はに何もないという状態が「ある」のだろうか、「ない」のだろうか。

そうではない。

対義語・否定語の発動はまやかしである。

もとより完全有であろうと何であろうと完全無でしかあり得ない。

わたくしはそこまで辿り着いているのだ!

2014年における原体験のもやもやが晴れていく、この感じ!

すなわち完全無であり完全有でもある世界などという仏教における「空」的世界観のようなものでは、最終的な【理(り)】と一体化することはできない。

一体化の体感・体験がなければ、その一体化をも無に帰するという体感・体験もあり得ず、いつまでも人間たちの学に縛られたまま、偽りの慰めによってタナトフォビアを誤魔化すことしかできない。

宗教学も、哲学も、科学も、本来的には無意義だ。

特に、哲学に関しては最終的には愉快に抹消しなければならない。

その意味でこの作品は非哲学である。

そして哲楽でもあるのだ。

【なぜ何もないのではなく、何かがあるのか】という懐疑は、実は元より破綻している。

ただの無は対義語・否定語を生むが、完全無は対義語・否定語を生まない。

そして世界は、世界の側から捉えれば完全無であり、人間の側から捉えれば完全有であり、それらを非本来的な、つまり頽落した思惟やことばによって互いに交通させることはできない。

完全無と完全有が互いに対義語・否定語になることなど無いのだ。

もっと厳密にいうならば、世界は、という主語すら無いだろう。

そのような主体など無く、「完全無」、この文字を述語にすることは不可能であり、人間たちはそれをただ眺めやったり、音声として聞き届けたり、ともかく感覚によって味わうことしかできないのだ。

完全無は「色即是空/空即是色」のように循環しない。

つまり、まったくもって動きを持たない。

たとえば、鈴木大拙が『般若経』から援用する「即非の論理」のような、まず人間たちにとって逃れられない前提としての世界という「ある」を「ある」として肯定したその後に、「ない」という否定の媒介項を必ず一度通過することによって、「ある」を「ある」として再肯定し、世界に対する珍妙かつ新鮮味溢れる異化的感覚を伴いながら「ある」へと還ってくる、といった回り道は、完全無という「世界の世界性」を突き詰めるための方便としては有用ではない、ということなのだ。

そもそも、「即非の論理」に対してどうのこうのとイチャモンを付けるその前に、既存の思想というものは、「ある」ということを括弧に入れるような小洒落たユーモアを持ち合わせてこなかった。

AはAだというのは、AはAでない、故に、AはAである。

と、鈴木大拙は書いている。

このAに、「ある」を代入するのではなくて、「ない」、いや「完全無」を放り込んでみると、さあ、どうなるか。

完全無は完全無だというのは、完全無は完全無でない、故に、完全無は完全無である。

「即非の論理」が完全無に対していかに無力か当の論理自身の嗚咽の色が臭い立ってくるではないか。

完全無は水面ではない。

浮いたり沈んだりする何もののための平面ではない。

完全無においては、何ものも足されることはない。

完全無においては、何ものも引かれることはない。

完全無に関する思想の新しさは、そこにある。

つまり、「ある」は「ない」であり、「ない」は「ある」である、といったような円環構造を世界そのものは持たない、ということ。

既存の思想は、すべて、有と無とを対義語関係・否定語関係に落とし込むことで、この現実を何らかのあらわれとして、つまり、有にも無にも忖度したような中間的なものごととして定義してきた。

もしくは、存在そのものと、単なる無(わたくしからすれば、それはニセモノなのだが)とを対義語関係・否定語関係として前提し、その媒介項として、生成という宙ぶらりんな概念を導入してきた。

たとえば、ヘーゲルの論理学における「有-無-成」という弁証法的トリアーデなども、前-最終形真理に過ぎない。

わたくしの思想の新しさは、そういった既存の思考法を超越することであり、いわば中道的な媒介項を経ることなく――あらかじめすでに――完全なる無だけを提示する。

有や存在が、完全無の方向へ擦り寄っていくことも、完全無に吸収されてゆくという動きもない。

つまり、何ものかが無化されるということはあり得ない、という点に新しさがあるのだ。

「Between Nothingness & Eternity」などというあやかし&誤魔化しは、タナトフォビア克服のためには、ぜひとも踏み越えて頂かなければならないのだ。

完全無とダミーとしての世界とはことばによっては交通不可能であり、それらの境界線として溝のようなものがあるわけでもなく、ことばで超越的に飛躍しようにも決して届かぬ何ものか、それこそが完全なる無である。

だからこそ、ことばによって構成されているこの作品がグダグダになってしまうのもそういった遮断が原因なのだろう。

しかし、聴いてほしい。

わたくしきつねくんは体感・体験したのだ、完全無としての世界そのものを。


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