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『完全無――超越タナトフォビア』第三十章
たとえば、完全なるつまりは最も美しく最も精確なる円を、何者かが任意の場所に書き記せば、その円を事実として構成するところの現実態において、どこが始まりの点としての時間なのか、どこが終わりの点としての時間なのか、ということが判然としない、そのような円と対峙することになるのだから、きつねさんの時間論なども、かつての仏教思想における円環的時間論とさして変わりはないのではないか、つまり、第二十九章で示したような車輪の比喩などは、床の間に飾ってある掛け軸の中に浮遊する、味があり、風流が匂い立つだけの円のかたちと同一レベルの話なのではないか、とおっしゃる方もおそらくはいらっしゃるでしょうね。
しかし、時間と空間に依拠した世界を鑑みるとき、とくにその時間性に注目して、それを何らかの図像による象徴に落とし込むことで、その時間性を認識しようとするならば、現在や過去、そして未来は、当然そこに、象徴的なひとつの点としてあらわされることになり、三つの分節としての現実態の分裂、それは不条理なバグに等しいのですが、ともかく前のめりに存在感を示しつつ、それぞれがそれぞれの正しい立ち位置について暑苦しい討論を始めてしまうのは、火を見るよりも明らかなことなのではないでしょうか。
いまやコンピュータも発達しておりますから、完璧な円を描き出すことなど、たやすいことでしょう。
さて、モニターに映るグラフィックスによる円のかたちというものは、たとえばお坊さんの筆による「○(まる)」の水墨画のようには、どの地点から筆を起こし始めたのか、つまりはその円のグラフィックスにおいて、書き始めの一点とはどの部分なのか、ということが、モニターを凝視するところの認識者の視覚によっては、正確には認知され得ないではないか、という意見があったとしましょう。
しかしですよ、いくらウィッシュボーンか機械には疎いからと言いましてもですよ、コンピュータの画面を見ている存在者がその時、その右手(もしくは左手)の人差し指か何かで、ここを始まりの点とする! とかなんとか申しましてですね、任意にですよ、始まりの位置となるべきポイントを指し示すことのできる余地、すなわち大いなる隙、脆弱性という名の亀裂を、存在者に許してしまう可能性を見出すことってあり得ることではないでしょうか。
円形から、現在・過去・未来などという分節点が生まれ出たとたんに、【理(り)】から、競走ごっこを始めるためにアキレスと亀が躍り出て来る気が致します。
そんなジョークはともかくと致しまして、東洋における宗教的なる円、先程から何度も登場しておりますが、禅宗がたいそうありがたがっております円相図という図像においては、【理(り)】はもとより成り立たない、もっと言えば、存在できないのであります。
始まりという名の点を、紙でもなんでもよいのですが、場所と呼ばれる空間上に設けたとたん、円という閉じた線による図像においては、その始まりの位置が、終わりの位置の点と同義になってしまう、という円環性は、結局のところ、どのような位置においても現在をつくることができるということなのです。
現在が点としてまず生まれたならば、その点の前後が未来と過去になるのです。
どうあがいても、たとえば、脳内で単にひとつの円を思い浮かべる時でさえ、われわれは完成された円を全体として一挙に想起することなどはできない、つまり、円におけるどこかの位置を、現在として無意識に認定しながら、ゲシュタルトとしての総体ではなく、部分の寄せ集めとしての全体的円を瞬時に構成してしまうのです。
じっくりと脳内を見つめてください、ひそやかに脳内の音をきいてください、脳内の円は、あなたの思惑を超えて、ひと息に現れ出ることはないはずです。
円を思い浮かべつつ、可能な限り意図的にスローモーション機能を働かせて、円を再度思い浮かべてみてください。
その円が円として完成するためには、時間と空間との共同作業によって生まれ出る変化という過程として、脳内で再現されているはずですよね。
わかりにくいでしょうか、申し訳ございません。
では、いいでしょう、たとえば、単なる円のかたちでできているだけの、名前も何も彫られていないハンコに朱肉をつけて、白い紙に捺印するシーンを超絶スローで脳内再生してみてください。
そのとき、円のかたちというものは脳内において、極小の部分を瞬時に積み重ねるというプロセスを経ることで、総体としてのかたちそのものが認識される、ということが理解できるはずです。
その極小の部分がどの位置から出現しようとも、積み重なることで生成変化してゆくためには、つまりは、プロセスという名の連鎖関係においては、必ず順序関係という規則が発生し、それに拘束されているはずなのです。
どの部分が始まりの点であるのか、ということが特定できようができまいが、始まりと終わりというものがなければ、われわれ生き物は円という表象を、ひとつの全体性として認識することはできないのです。
プロセスのあらゆる部分において、それぞれがそれぞれの差異として関連付けられてゆくことで、ひとつの概念の総体は、ひとつの個物として名を与えられるに至るのです。
さて、ここできつねさんの【理(り)】を考慮に入れてみましょう。
【理(り)】は世界を幅のある概念として捉えることを拒否します。
ですから、世界を線であらわしたり、図であらわしたり、曼荼羅のような図像であらわしたりすることは、根源的にはできない話なのです。
それに、「○(まる)」という図像には、そもそも曲率という極小の積み重ねによる変化量がわかりやすいほどに現われ出てしまっています。
こういったものは、世界には幅がない、というきつねさんの【理(り)】に反するのだ、ということをここでもう一度だけ言っておきましょう。
大切なことは二度言うべきです。
もちろん、世界、いやその前に、宇宙の曲率が正であろうと負であろうと、科学的解釈は【理(り)】そのものに適用したとしても、あまり見返りはございません。
ありていに言いまして、科学において使用される理論とは、その科学を利用する存在者の理性に該当する範囲においてしか、その効力を発揮することができません。
数多ある仮説とその検証、そして推論や理論というものは、それが科学的であればあるほど、人類の脳内における主観的判断というシステム内においてでしか、真理たり得ないのであります。
もちろん、弾き出されたあらゆる科学的ビッグデータの数字とは、人類内においてですら、正確無比なる確固たる値ではなくて、すべては近似値とならざるを得ないという宿命を鑑みても、完全に信用するに足る理屈ではないことは明らかではないでしょうか。