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『完全無――超越タナトフォビア』第三十九章

宇宙であろうが、宇宙ではないなにものか、であろうが、なにかがなにかから生まれる、ということはない。

無から無を媒介にしてなにものかが生まれるだとか、有と境界線を分有できない無から、なんらかの突発的事由によって(それが量子力学的であろうとなかろうと)有が飛び出してくる、などというような、そのような三文オペラは、わたくしによる究極の【理(り)】によって解明されるべき「世界の世界性」としては成立し得ない。

消えるために、なにかが生まれる。

生まれるために、なにかが消える。

そのルフラン。

そういった惰性による、対義語への、というよりも、対義語と対義語との連関に対して過度の心服を注ぐだけの人間たち。

己の信の重厚さだけを、パーソナルスペース内における狭い目配りの中だけで軽々と賛美し、たとえその信条が、その人間の理知的判断と弁証法的に対極化され総合化へと昇華されたとしても、昇華された当の概念に対する新たなる概念を無限に希求し、無限に対義語化してしまう人間たち。

対義語そのものからの脱却を成し得ず、無限の「対義観念連合ゲーム」へと勤しみ続ける、人間という存在者、特に頽落した人間たちは、ことばによる真理のさらに奥にある核を見落として、しっかり重いはずの自身の常識的頽落という属性を、無意識の闇へと知らずに蓄積しながら、真理の表面だけを軽々と迷走し続けているのだ。

しかし、生成と崩壊、そのような動的対立概念は、「世界の世界性」として生起し得ない、ということに関して、彼らは果てしなく気付くことがない。

人間というものは生まれては死んでゆくものなのだ、と生物学的、法医学的、客観的に言及され得ることは、一般的、学術的には真実だとされているが、根源的、非頽落的、究極的、前-最終形真理を超えた【理(り)】的には、そのようなことはあり得ない、という非神秘的神秘にまで思いを馳せられる人物のなんと少ないことか。

生物学的な生、法医学的な生、客観的な生、生物学的な死、法医学的な死、客観的な死というものは、わたくしきつねくんが標榜するところの【理(り)】においては、表現としても表象としても「ありありと」あり得ない概念たちであるが、己を浅はかだと断じて哲学的考察を捨て去る前に、絵馬の裏に書かれたすべての願いを集めるように、人間たちはまず一般的な、つまりは常識の範疇における知性を駆使することで、学術的な範疇におけるありきたりな存在論にその身を浸し切ることこそが効率的な振る舞いではないだろうか。

そういったスタンスに一旦立脚してしまえば、生と死だけでなく、有限と無限との哲学的昇華であるところの究極の存在論というものを捉えるための準備運動へと、その歩を進めるのに都合が良くなるだろう。

そこで、たとえばまず第一に、このように考えるべきかもしれない。

宇宙の初期状態に存在したであろう「粒たち」が被らざるを得なかった合成/分解、引力/斥力などという物理的・化学的現象が、今現在における人間たちの実体的存在者としての構成を担保するところの環境的材料になっているということは確からしいだろう、と推測してみる。

VIVA質量、VIVAエネルギー。

それは、宇宙の初期状態にあったとされる「粒たち」という材料が、変化という連綿たる歴史的発展を遂げ続けているということを、科学的に証明「できれば」済む問題として、自分たち人間にとってはイージーではあるが、しかしさしあたり有意義であると認められる存在論的テーゼとして採用することはできるだろう、と。

地球も、それ以外の星たちも、そしてそれらを内包するとされている宇宙全体も、そのような無限的歴史的発展における途中経過としての「粒たち」の事実的状態である限り、原始スープであろうが、そのスープより誕生したとされる生物の祖先(単細胞生物)たちであろうが、単に「粒たち」の生成変化に過ぎないであろうし、その後に登場したとされる多細胞生物からの流れに、さらなる流れが積み重なり積み重なり、その膨大なる数の鎖を指数関数的に軋ませ合いながら、人間という、動物の一種である存在者の位格へと、それらの「粒たち」は収束と発散に磨きを掛けつつ(たとえ進化論が正しかろうとそうでなかろうと)、変化流転してきたのだ、という歴史的事実性が、人間たちの理解できる範囲の真実性とほぼ相同として解釈できたとしても、この宇宙の歴史的経緯の正しさへの認識としては誤りではなく、統計学的にも有意な解釈となり得るのではないだろうか。

VIVA質量、VIVAエネルギー。

しかし、存在者の存在という大いなる連鎖を信用すること、それは常識という狭小な環世界に頽落してしまっている人間たちにとっては、安易なLOVEでありまやかしのJOYではあるのだが。

それはともかくとして、時間の、いやそれだけでは飽き足らず、空間の、そう2本の糸を、世界は縦横無尽に繰り合わせ縒り合わせるのだが、それに反抗するかのように、時空という増殖的存在は世界のあらゆる亀裂を探り当てては、それらを完全リゾーム化によって支配しようと目論んでいるのではないか、というシミュレーションも、わたくしには重要である。

そのような世界と時空との絡み合いとは、たとえば、見えぬモナドのすべてを飾る華厳の乱反射、融通無礙(ゆうずうむげ)なるパンタレイ・マトリックスの全方位拡散、決して結ぼれること無き二重螺旋曼荼羅の無限べき乗とも言えるのではないだろうか。

まあしかし、そのような過剰に陳腐なイメージで語ることのできる類いの科学的仮説世界、つまり一般的感性、一般的知性、一般的理性に訴え掛ける位相から眺めやる世界に対するシミュレーションというものは、人間化された世界、人間的スケールにおける真理の範疇(つまりそれこそが、わたくしが前-最終形真理と呼称するものであるが)においては、真実として客観的事実として、ある程度までは有効であろう(反証可能性を満足させられるかいなか、ということも関わってはくる限り、仮説というものは絶対的に、確率論的不確かさに付きまとわれるからだ)。

しかし、それらの学者御用達の科学的シミュレーション、科学的反証性、科学的エビデンスという範疇におけるメソッドは、最終的な【理(り)】、つまり前-最終形真理のその先であり、対義語関係、さらには否定語関係のない「世界の世界性」としての【理(り)】の地点無き地点からは(何度も説明しているが)、無限遠点より遥か向こうに位置しているのだ。

だからといって、たとえば生物学における進化論に対抗するところのキリスト教的創造論のような認識論こそが正しい理論なのだ、と声を清楚に荒げることも、わたくしとしては認められないことである。

なぜならば、「世界の世界性」とは、転変との相関関係を持ち得ず、時空全体に依拠する必要性もなく、ただただ非頽落的な存在者が、「ある」と言う文字に沈溺しつつ、その「ある」の底の底を突き抜けてゆくという詩性豊かな形而上学的体感によってでしか邂逅し得ない不条理的条理以上のなにものかであるからだ。

たとえ、神=「ある」という思想が(もちろん、キリスト教における神の定義は一義的ではないということは承知の上で)活発に論議され、正しさとして信用に足るものである、と一部の人間たちが称揚しようとも、最終的には神という偉大なるなにものかの底の底を越えて、いや「超えて」ゆくことでしか【理(り)】には到達不可能であるし、哲学における究極の未解決問題であるところの、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」を解剖するためのメスをその手に持つことすらできない、とわたくしは考えるのである。

そして、近似値的な方法論であり、逆説的な物言いかもしれないが、世界そのものに迫るためには、まず手始めに、認識論的、存在論的、形而上学的、抽象的なことばとどこまでも戯れ尽くさねばならない。

沈黙という思考停止は甘えに過ぎない、ご都合主義の言い訳、体のいい誤魔化し、逃走的な愛想笑いに過ぎない。

わたくしの説は、神という超越論的観念すらその立ち位置を示す場を持ち得ない、というところから出立しているのであるから。

そして、世界が確実にあるのかどうかを定めるよりも前に――「ある」という概念には幅がない――というテーゼを根本に据えることから、この哲学的(いや非哲学的と言った方が精確かもしれないが)思弁は狼煙を上げたのだ。

すべての始まりは、わたくし自身の体験、体感、目くるめくドグラ・マグラ的な観念地獄という、とことん極私的な直観認識力による示唆からであった。

果たして世界は「ある」のであろうか。

世界は「ある」ということが自明であるはずなのに――幅――つまり延長的概念は、ない、とわたくしが最終的に到達できたのはなにゆえなのか、ということがこの作品では明らかにされるはずである。

ひとつの前段階的なヒントとしては、世界そのものにおいては、なにもかもがもうすでに起こってしまっているから、というシミュレーションに依拠してみる、というパターンもある。

何かが「ある」ということは、ナマの事実として、素朴実在論的な認識レベルとして、誰にでも到達可能な現実であり事実であり真実なのだが、その「あり方」それ自体を、各自の認識を超えたレベルで、すなわち形而上学的に全般的に体感するということは、常識に埋没してしまった人間たちにとっては、極度にいびつだが跳び越えるべきハードルなのであろう。

しかし真に悶えるべき問題は、そのハードルが、頽落した人間たちのフィールドに一向に現前してこない、という現実における常識的価値観という罠そのものにあるのだろう。

疑義の多い、黒なのか白なのか、いや、色そのものすらあるのかないのか判然としない、あまりにも特殊かつ普遍的な事件としての「ある」ということ。

もしかするとそれは、世界そのものという存在のあらゆる判例時報を、世界そのものから隔離されている存在者であるところの頽落した人間たちには、その一冊たりとも引き抜くことができないということの大いなる示唆なのかもしれない、ということ。

さらに、存在のあらゆる判例時報をすっかり埋め尽くしてしまっているはずの、その棚のすべてを、頽落的存在者たる人間たちには一渡り見通すことがあらかじめできないような次元が、トラップとして世界そのものに機能しているのではないだろうか。

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