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『完全無――超越タナトフォビア』第二十六章
ある
この文字だけを世界に残してみましょう。
あることがある、でもだめです。
あるのみです。
ある
その二文字をじっくりことことみつめる感じです。
すると不思議。
ある、という字が、ない、に見えてきませんか。
確かに難儀ですね。
ははは!
どうしたって「ある」という音声が、もしくは「ない」という音声が、現象として時空の中に成立する際の、つまり「ある」もしくは「ない」という言葉を口に出す前と後とが、時空の枠内で発生してしまわざるを得ない限り、「ある」の前後に鍵括弧のような枠がぜひとも構築されなくてはいけないような仕組みなのです。
そして、その枠の中で浮き立つ音声が記憶に残ってしまう限り、「ある」の外部の枠の存在に邪魔されて、シンプルでミニマムな認識、すなわち「ある」そのもの、つまり「ない」そのものに、幾たび逆立ちや倒立前転を繰り返そうとも、ウィッシュボーンは辿り着けません。
文字としての「ある」や「ない」の場合も似たようなものです。
文字として書かれるためには、その文字を浮き立たせるための背景が必要です。
「ある」や「ない」が「ある」や「ない」として本来的に実存するためには、すでにあらかじめ無ではないなにものかが用意されていなければなりません。
ですから、いくら文字としての「ある」を想起しようとも「ある」そのもの性以外のなにものかと無限に繋がれている時空が、認識者であるウィッシュボーンの邪魔をすることになるのです。
あらゆる学はかなぐり捨てるべし、との信条を持つきつねさんにとっては、ある、つまり、ない、という二文字のみに自身を一体化させつつも、その文字を同時に消去してしまうような荒技も、単なる道楽遊びのようにこなしてしまうのかもしれませんね。
しかし、ウィッシュボーンのような未熟者はいつまでたっても、足し算、引き算、掛け算、割り算、その他もろもろの計算に日々を浪費しがちなのです。
やれやれなのです。
きつねさんは【理(り)】の追究のためならば、どのような概念をも徹底的に問い詰めて、その価値を見極めるのでしょうけれども、修行とはいえ骨の折れる思考実験です。
【理(り)】の追究がわれわれ生き物における最終試練だとよいのですが、実際には最終だと思ってたステージがはじまりの章だったりしますよね。
少年漫画なんかによくある後付けの設定に似ているのではないでしょうか。
最後のボスを倒したと思いきや、位相の違う世界においては、そのボスすら最下層の雑魚キャラのひとりであったことが明かされる、みたいな。
ウィッシュボーン、わくわくがとまりません。