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『完全無――超越タナトフォビア』第五十四章

人間たちよ、過去や未来、さらに今というなにものかに視線を注ぐことなかれ。

求められてもいないのに、原因と結果を結び付ける癖を飼い慣らすことなかれ。

すべては「今ここ」において起こってしまっているという定義に安住することなかれ。

現在がなんだというのだろうか。

現在を何か強烈に高貴な存在として崇めるのはなぜなのか。

あらゆる「学」は、なにゆえ現在を起点として、過去や未来を定義するのか。

現在とはなんなのか。

現在とはなんなのかをわたくしに語っても無駄である。

無駄を追求し、追究する人間たちが逆に愛おしくもあるのだが。

だがしかし、わたくしは完膚なきまでに、無慈悲なまでにあらゆる起点、あらゆる起点からの方向性、あらゆる起点からの眺望を、棄却する。

完全無においても、完全有においても、定点などは存在し得ない。

たとえ、時空そのものが現在や過去、そして未来までも証明してみせたとしても、わたくしは表情を崩さない。

時空そのものだけが、時空そのもののメカニズムを無自覚に発露できるのではないか、と人間たちは豪語するかもしれない。

しかし、完全無においても、完全有においても、機構が構造的に意義を持つような「場」は存在しない。

時空という「幅」は全き世界においては、存在と成り得ないからである。

非本来的な、つまりは常識に堕した、頽落した観点から真理の先を見極めることは、無謀である。

根源的な究極の【理(り)】が、現実逃避としての立ち話や手垢の付きまくった一家団欒、思考停止としての歓談、感情だけが先走るチャット、そのようなありふれた巷には姿を現してくれれば、それはほっこりとした福音として微笑ましいことなのかもしれないが、コトはそうイージーではない。

ありふれた生活意見の中には対義語があふれやすい。

人間たちのほとんどは、ただただ対義語に対義語をぶつけるゲームによってストレスを発散しているに過ぎない。

ところで、完全無そして完全有とは形而上学的でも形而下学的でもない。

モノの哲学でも、コトの哲学でもない。

完全無とは、つまり完全有とは、あらゆる対義語関係やあらゆる否定語関係を、何らのオペレーションを加えることもなく、何らのアルゴリズムにその身を重ねることもなく、あらかじめ対義関係を完全達成的に超越しているのだ。

オペレーションやアルゴリズムから自由に飛翔するためには、まずもって非時間論的かつ非空間論的に思惟しなければならない。

完全無、そして完全有は何も見ない。

完全無、そして完全有は何も感じない。

完全無は完全無を知らない。

完全有は完全有を知らない。

何も知らないということは、起点というものを時間的にも空間的にも持ち得ない、ということであり、主語と述語をその構成部分として持つところの命題なるものも、完全無、そして完全有が知るということはあり得ない。

さらに、原因という定点を完全無、そして完全有においては設定できない。

「こうすれば、こうなる」という動きを、完全無、そして完全有は持たない。

「この方法ならば、今よりももっと良くなるだろう」という淡い期待、ささやかな希望、いたいけな恩寵、そのような精神論とは本来的には無相関である。

何をどう変えようとしても、未来などというものがあらかじめすでに「無い」のであるから、すべては今という現在でいっぱいだ、と定点をずらした表現をしても無意味である。

どうしようもないくらいに、今の状態があるだけだ、という事態も完全無、そして完全有においては成立しない。

「今」という、ただでさえ曖昧なことばを、常識の枠内で便宜的に用いることは無意味である。

「今」という概念が曖昧であろうとなかろうと、そのような立ち位置を時空との連関において持つことができないのが完全無であり、完全有である。

つまり、人間たちが何をどうしようかと画策しようとも、人間たちが何をどうしてきたかと振り返ろうと、完全無、そして完全有においては何も変わらない。

変化ということがないのだから。

何かが変わっている、という現前の表象、それを精神が、心が、魂が、肉体が、つまりはあらゆる存在者がいかに把捉し、いかに認識し、いかにありありと語り始めたとしても、本来的に、そういった変化というものは欺瞞に過ぎない。

そういった欺瞞を愛と呼んでもよいとは思う。

欺瞞によって世界に亀裂を入れたい、という本能は致し方ない。

純粋に夢を希求する少年少女のような抗いは、醜くはない。

対義語関係も否定語関係もないはずの【理(り)】に対して、いつまでも目覚めないでいることを否定する権利は狐にはない。

科学や哲学における真理への逃走は、漸進的な良心の成長に似て恥辱に塗れることはない。

情に流されるように盲目になってゆくことそのものには、害はない。

そのような自覚無き無知であるならば、完全無、そして完全有にとっては無害である、という点において、人間たちが責めを負うことはないだろう。

たとえば、正体不明の宇宙伝説的な物質として、ダークマターなるチープな名称の単語が人間界には存在する。

宇宙の総質量のほとんどを占めるとされるが、光学的には観察不可能とされているサムシング・グレートな輩であるが、そのようなミステリーに対する理性的な推理という手続きに、あこがれとしての浪漫を添加してしまうのが、人間たちのありふれた所作であり、軛(くびき)でもある。

人間たちは、浪漫に対しては情緒不安定なまでに想像過多であり、多面的なイメージのシミュレーションに酔いがちである。

ダークマターなる輩には攻撃的意志があり、他の素粒子たちはダークマターのご機嫌をうかがうために、盲目的なる自身の意志に身を委ねているだけなのではないか、と推論し、仮説として採用し、科学的証明の冒険へとさあ繰り出そうぜ、などと強弁するようなこともあり得るかもしれない。

そのような人間的スケールの欲求も、大いなる謎への、奥ゆかしい真理(ただしここでの真理は、前-最終形真理)への、神秘的な知への愛としては、悪ではなくて善そのものであるだろう。

善としての人間の行為は、科学であろうと、哲学であろうと、どのような学であろうと、知への愛という放埓さと不可分である。

知への愛においては、いじましさなど欠片もないのだ。

愛とは対義語関係無き否定語関係無き【理(り)】に抗う、蠱惑的で愉しい「じたばた」でもあるのだから。


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