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『完全無――超越タナトフォビア』第二十三章



きつねさんによりますと、世界を名付けることなく世界に対して関連付けを放棄することを精確に表現をすることを求められたならば、生き物の持つ根源的超無意識や超悟性的体感という動的でも静的でもない本能的無規定性こそが、唯有論(ゆいうろん)、唯全論(ゆいぜんろん)、唯在論(ゆいざいろん)などという安易かつスタティックな全体論的構造に対して、何らかの主体が哲学を超えて非哲学的に抗うための無の源となるエネルギーのようなものになる、ということをまず前提としてあなたの思想の最も純粋な層を確かめつつ据え置け、ということらしいです。

言葉や文字や記号というものも、実はそのような源流からの水勢としての賜物、という意味を背負わされているといことらしいのです。

そのような賜物が持つポテンシャル・エネルギーこそが思考、思想を支配する意識そのものであり、そういった「おもい」の力で作り出すことのできる概念というものは、何もかもすべて、もちろん自分自身をも含めて自爆することすら可能であり、その自爆の作用因となるものが、本能的意思という遺伝的しがらみ、それに心を一旦預けることで生まれる仏教的無我ということになるのでしょう。

ですから、唯有論(ゆいうろん)、唯全論(ゆいぜんろん)、唯在論(ゆいざいろん)などという全体性的概念を表すようなことばそれぞれの特性として、それらは、己自身を、つまり唯有論(ゆいうろん)、唯全論(ゆいぜんろん)、唯在論(ゆいざいろん)そのものを、各自が自ら破壊することができる可能性を強制的に秘めているのであり、概念そのものが概念自らを、動的に否定することのできる反跳性として、本能という名の敵を生まれながらにして隠し持っている、ということらしいのです。

主に人間においては、そのような潜勢力つまり概念と概念とを本能的にたたかわせる力、という属性(思わず知らず互いを対義語化してしまうような癖)が無意識的なエリアにおいて、特質として備わっているのです。

そのような「概念さん」ですが、とりわけ革命的軍事力と神的機動力と呼ぶにふさわしい概念というものがあり、それが、「愛」や「絆」と名付けられるところの普遍的かつ根源的な能動力なのだそうです。

「愛」や「絆」は、人間たちを含めたすべての生きものにとっては、安易に飛び付きやすい全体のような概念を象徴すること、漠然とした完結性として自我の行き着くところとしての真理に対して、気まぐれかつ突発的な、しかしそれでいてささやかななる抵抗を示し続けることのできる運命そのもののことでもあり、いわば全体性的世界に対する、無秩序的な無限の抵抗なのです。

全体的真理に対して亀裂的に挑みかかることのでき得る、ちょっとした、しかし甚大なる永劫回帰的反抗の形式を、人間たちだけではなく、あらゆる生きものは自然に持ち合わせているのだと、きつねさん的には言えるのでしょうね。

しかしながら、実際のところは、抗えば抗うほどに、世界そのものはすでにあらかじめそうなっている、いつの間にかそうなってしまっている、つまり「ある」ということだけが「ある」という完璧さにおいて、どちらが優位に立っているかと申しますと、それは世界の方なのでしょう。

きつねさんの思想に対する理解度は低いかもしれませんが、ウィッシュボーンはウィッシュボーンなりに拙いことばを紡ぎたいのですが、おそらくこの章におけることばの羅列はとてもちぐはぐで分かりにくいかもしれません、もうしばしご容赦下さいませ。

さて、究極の【理(り)】に近づくにつれて、完璧な世界に対する革命の勃興と終焉を、亀裂を沁み出す狼煙の中で、「愛」や「絆」は最終的には終わりのラッパを吹くことになるのだそうです。

少し事細かに言いますと、きつねさん的には、「ある」ということが「ある」ではなくて、「ある」だけであって、主格無き完結状態というものをとくに強調したい、と常々おっしゃっていらっしゃいましたが、その部分については後の章で解剖されるはずです。

サムシング・グレートであるところの大いなる何かに反抗しようとか、何かをとっちめてやりたいなどという一連の革命的、いや、美談抜きで言い換えたとしても、英雄的行為と呼べるような観念ゲームに供するような論理学は通用しないのかもしれません。

結果はすべて確率論的であろうとなかろうと、原因と結果が必然的に結び付こうが、そうでなかろうが、物理学的な認識論における論理の整合性ではなかなか埒が明かない、一般的な学問的地平における限界点、極点、最果てからさらに遠いところにある非学問なのかもしれませんが、きつねさんの発想というものに到達するためには、一旦は論理学を超え出るべきなのかもしれません。

あらゆるすべてのプロセスを掌中に収めることで成立するものは、全体や普遍などという言葉を超え出たなにものかであるはずです。

プロセスがプロセスとして意味を持たない次元、そしてその次元すら意味をあらかじめ消失してしまっているなにものか、それが世界の大いなる秘宝なのかもしれないのです。

まあ。きつねさんからしてみれば、もうすでに体得した、論理を超えた、つまり真理をも超え出ているであろう【理(り)】という発想からの、常識的本来性からはあり得ない帰結にはすでに到達していらっしゃるだろうとウィッシュボーン、判断しております。

もはや何をおいても、そのようにに「ある」ということだけしかあり得ないということ。
原因と結果の因果関係を追求しても仕方がない、ということが基本中の基本なのかもしれませんが、ウィッシュボーンはまだまだ修行が足りないのか、体感としても学びとしても、きつねさんの思惑、いまだに全然解読できておりません。

ははは!


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