カイエ【第五章】
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タナトフォビア。
死恐怖症。
そしてそこからの脱出。
さて、
科学による不老不死の達成も宇宙いや、世界そのものの無化には抗えないだろう。
哲学による真理への論理的探究も、
宗教による認識の信条的変化も、
タナトフォビアを劇的に改善させることはできない。
しかし、
これら三つの学問領域にこそ最も多くのヒントがあることは否めないだろう。
スピリチュアル系すなわち疑似科学・未科学といったオカルティズムや、
身体的セラピーや整体などのヒーリング系は、
その場しのぎとはいえ【タナトフォビア・メシア】となり得るし、
あらゆる心理療法も同じ可能性を持つ。
密教系仏教のタントリズムにおける性的ヨーガも一時的な救いとはなり得るし、セックスそのものが安易に救いになる場合もある。
合法・非合法問わず、
あらゆる薬物、
あらゆる嗜好品、
あらゆる娯楽、
あらゆる記号(象徴)、
あらゆるフィクションとの戯れも、
刹那的な【タナトフォビア・メシア】となり得るだろう。
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物理学には文字・記号が必要だ。
真理、
もしくは真理を超えたものを追窮する能力としては限界がある。
真理のその先は決して文字や記号では表現できないからである。
その点、
詩人や哲学者は、語り得ない究極をどうにかこうにか文字によって仮に名付けていくという作業を繰り返してきたのだ。
科学者にはできない突き止め方の反復の歴史がそこにはある。
特に詩人の直観認識力はおそろしいもので、
科学の数歩先を予言的・預言的に表現する場合もあったと言えるだろう。
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知性は肩書きの中にはない。
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最終的な【理】から一段下がって一般的な常識レベルから死を捉えてみると、
人間というのは死後も勉強に事欠かないことがわかってくる。
生きているときは「有」を学び、
死ねば誰も彼もが「無」を学ぶのだ。
ただし生きているときと違って、
死ねば学びは完全に強制的かつ受動的だ。
耐える耐えられないに関係なく、
「無」の学びは続いてゆく。
誰彼の差別なく、学ばざるを得ないのである。
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「0(ゼロ)ってなんですか?」
「順番待ちの好きなやつです」
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0(ゼロ)は完全無ではない。
0(ゼロ)は己以外の数字に依存している。
0(ゼロ)は究極の<構ってちゃん>である。
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人類は日々速やかに低能に堕してゆく。
アダムとイヴこそ最高の知性であった。
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人間がそこらに転がっている石に進化することができたなら、世界の【理】に一歩どころか最接近できるだろう。
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恋愛において、たったひとりのひとだけを愛している人間にとって、生まれ変わりという可能性ほど絶望の極みとなるものは存在しないだろう。
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原典主義や原理主義にトリツカレナイことが、これからの時代には必要である。
なぜならば<専門バカ>にならないための知慧、知を愛することから逃走するための効率的な生きざまこそが、これからの時代に埋もれることのない個と孤を育むからである。
これからの時代とは何か。
それは、埋没した現在の積み重ねとしてのイリュージョンである。
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バカになることは難しい。
人間は生まれつき怒涛の馬鹿なのだから。
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人間は無限ということばが好きだ。
こころを動かし続けることが好きだ。
どこかの誰かが熟睡しているとしても、
その人は無の紛い物にこころを動かし続けているだろう。
人間は決して休むことなどできないのだ。
人間は絶えず動いているのだ。
生まれる前も死んだ後も。
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無は静的でも動的でもない。
無の対義語は無限でも永遠でもない。
無限も永遠も完全ではない。
無は完全である。
無には柵がないし、柵をさがそうとしない。
無は黙っているわけではない。
無は沈黙すらできない。