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『完全無――超越タナトフォビア』第八十四章
とある時、とある場所において、とある写真に写っている真なる事物とされている現象は確かに過去に存在したものであるのだ、と常識的には認定されていることを自覚するのはオートマティックで受動的な人間たちの悪癖だ。
その自覚の正しさを知りたいがために、とある写真、いやそれは動画であろうと何であろうと構わないのだが、ともかく現象界においてオブジェクトとしてに時空的に映っている真なるものは、とある時の、とある場所において、確かに歴史的事象として現前化したのだ、ということの証明を人間たちは必要としてしまうのだ。
だがしかし、人間たちの法は人間たちにしか通用し得ないし、統べるものが国を統べやすくするために、統べられるものは統べられるものとしての自由の確保のために法を認めざるを得ない、という内輪の馴れ合いの無力にも似て、世界そのものにおける時間性や空間性の証明などに関しては、人間たちには――あらかじめすでに――不可能であるのだ、とここでわたくしは強弁したい。
人間たちは人間たちの主観によって距離や延長という概念たちを見出しては得々としてふんぞり返っているが、人間たちが距離や延長として盲目的前提としているものを、縮めようが伸ばそうが、世界そのものという絵柄が変化を蒙ったかのように、擬似的(真実というものは常に擬似的次元に属さざるを得ない)に写される、もしくは映されるだけであり、人間たちが愛寵しがちな「距離感」という感覚も、幅無き世界としての完全無-完全有においては、無という無限以上(無には無限大・無限小という拡大を許す概念だけではなく、幅のない、という意味合いでの無限という概念が含まれていることにも注意すべきだろうが、ここで扱うのは幅のある方の無限である)のパーツの総入れ替えごっこしているに過ぎないのであり、その位相(無相と言っても不正確ではない)においては距離や延長などという幅のある概念を必要とすらしていないのだが、人間たちはその本来的な、つまりは日常生活的・一般常識的・科学的思考的地平を超えた位相無き「世界の世界性」の、その究極的ニヒリズム的有意味に対して、日がな一日気付けずにいるだけなのだ。
「世界の世界性」という、現象界、日常生活界における対義語関係・否定語関係を超えた【理(り)】に向かって、まずもって認識だけでも到達するための必携の武器は、すべてはもう無的に起こってしまっている、という悔悟と諦念と、推論の棄却そして明視の喪失である。
何事も推移する、遷移する、変異する、などということはあり得ないのだ、ということを、生命体は生命体特有の属性である魂(それの別名は虚無の豊饒性とも言えるだろう)ごと、つまりマクロからミクロへの往還としての自己のすべての無的全体性として、脱自しながら漸近線的に見極めようとすることが大切ではないだろうか。