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『完全無――超越タナトフォビア』第二十四章
唯有論(ゆいうろん)の「有」や、唯在論(ゆいざいろん)の「在」、そして、たとえばここで新たなる造語といたしまして、唯全論(ゆいぜんろん)なるものを考案したとしましょうか。
その唯全論(ゆいぜんろん)の「全」という文字にも対義語が存在するじゃないか、そんなことより、根本的に「ある」という文字に対義語があるんじゃないか、とおっしゃる読者さんがいらっしゃるかもしれませんが、きつねさんのおっしゃるところの「ある」とは、対義語のない「ある」なんだそうです。
言葉であらわそうとすると、どうしても但し書きが必要といいますか、不本意ながら近似値とならざるを得ないということなのでしょう。
近似値とならざるを得ない以上、どこまでいっても漸近線、という位置関係においてしか、たゆたうことしかできないのが生き物の発想の性(さが)なのでしょうかね。
唯有論(ゆいうろん)にしても他の論にしても、どうしても文字列として伝えようとすると、世間一般的な解釈を招きがちですが、きつねさんは、とにかく対義語、対立関係というものは取っ払ってしまえ、という方針なのだそうです。
たとえば、宇宙という文字列を世界に存在させますと、おそるべきかな、同時に非宇宙がうまれ、世界という文字列を存在させますと、非世界がただちにうまれ、矛盾をなるべくならば許容したくないような、一部の頭の固い連中には、いったいぜんたいそれらの対義語のうち実在するのはどっちなんだい、という疑問がつきまとうことになりますよね。
そういった疑義の発生こそが、最大かつ根本的な過ちであることに気づけないでいるのは、不幸なことではないでしょうか。
ウィッシュボーン、そのように理解しました。
理解はしましたが、不幸なこと、という言い回しはちょっと傲慢な口振りでしたね、ごめんなさい。
さて、ほんものの実在とは何なのか、そんなことを思料していましたら、ふいに今、脳内に、ウィッシュボーンの好きな荘子さんの著作と言われている『荘子』という書物のことが沸き立ってまいりました。
『荘子』において荘子は、万物は変化、すなわち「物化(ぶっか)」という概念である、ということを提唱しております。
世界は変化、それならば「変化をたのしめ」というスタンスだったと思いますが、きつねさんというおそろしい方はそういった「物化」さえも否定してしまいます。
あるのは、変化ではなくて「ある」だけであって、やはり、現在・過去・未来という観念連合のまやかしにとらわれるのは、当然、不正確かつ不完全であり、悲惨な認識論に過ぎない、とおっしゃってましたね。
「ある」という言葉が単独で成り立っている感じ、それが、もしも言葉で世界をあらわすならば、もっとも近い「感じ」だということのようです。
そして、きつねさんは、さらに詰めていきます。
老子さんや荘子さんですら、絶対性と相対性とをはかりにかけて、重さ比べという手順を踏んで、真理というものに達したわけなのだが、その手順、プロセスの意味内容すら本来的な観点からすれば、とても効率の悪い、怪(け)しからん過ちなのだそうです。
荘子さんといえば、「万物斉同」、なんでもかんでもみんなおんなじ、というテーゼを唱えた方ですから、近いといえば近いのでしょうけど、きつねさん的には微妙に違うのだ、と言うことらしいです。
しかし、最終的には微妙などという微細なレペルではなく、まったくの別物としての究極の【理(り)】にを提示しつつ着地してみせるさ、と敢然とした面持ちで、先月の終わり頃に、きつねさんはそうおっしゃいました。
最短経路を弾き出すアルゴリズムから、最短経路なきアルゴリズムへ、そしてアルゴリズムなきアルゴリズムから、アルゴリズムそのものを消去してしまう認識の大転回、そのようなエモーショナルな展開をウィッシュボーン自身も期待しているのです、きつねさんに。
賢さの足りないウィッシュボーンではありますが、「万物斉同」という真理は、突き詰められていない、曖昧な学が陥りがちな、脆弱性の虜囚に過ぎず、安易な帰着としての、ありきたりなワンネスに過ぎないのはないでしょうか、と言ってしまいたくらいですが、今はやめておきましょう。
なぜなら、ウィッシュボーンのこれらの物言いは、きつねさんを経由しての類推に過ぎないのですから。