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『完全無――超越タナトフォビア』第六十三章


時間や空間という「幅」は確かに、人間たちのでっち上げた有無のあわいのマボロシだとは思う。

人間たちは「幅」を感知できるようになってしまったんだろう。

もちろん、愛というなにものかも、有無のあわいのマボロシであり、「世界の世界性」に刃向かう際の常套手段であるが、それは上等な武器でもあるんだよ、チビたち。

「世界の世界性」に刃向かうときって、人間たちは意志の力を借りているだろうか?

意志の力ではない、なんらかの不可抗力のようなものに衝き動かされているような印象を受けないだろうか?

人間たちにとって抗い難いフォースとは、時空なのではないか?

時空の中では、人間たちは意志を自由に働かせることなどできないのではないだろうか。

時間や空間というものを様々な角度から解釈し、定義することで、時間や空間という概念は複雑性を増してきたのだし、今も増し続けている。

概念を細分化して細分化して、さらに細分化して、人間たちは定義の中に小さな定義を包含し、その小さな定義は、さらに小さな定義を包み込んでゆく。

まさに、永遠の入れ子のように冗長な複雑性ゲームではないだろうか。

概念は複雑になればなるほど、訴求力が小さくなる。

複雑性を追求せざるを得ない状況というものは、原初の人間たちの目には、背進として映るかもしれない。

人間たちは進化してきたのだろうか?

人間たちだけでなく、すべての生き物は、日々退化しているのではないだろうか。

時間と空間という「幅」のある概念に、人間たちは魂ごと乗っ取られ、制御不能に陥ってしまっているのかもしれない。

いや、制御不能になる寸前に、人間たちを救助したのが、愛なのではないだろうか。

人間たちは、退化と引き換えに愛を手に入れた。

真理を旅する人間たちは、道具袋の中で退化が身重になるたびに、それを神に売り、神からは愛を入手したのかもしれないではないか。

最初の人間がアダムであろうとイヴであろうと誰であろうと、最も進化していたのは彼もしくは彼女もしくは何者か、もしくは一群の人間たちであっただろうと、わたくしは考えるのである。

さて、時間や空間という縛りの中で生きる頽落した人間たちは、自己と自我との齟齬に悩まされることもなく、生活世界において、ことばの曖昧性そのものとして、記号的に機能することだけに没頭していることが多い。

頽落した人間たちのほんの一部のクラスタだけが、記号的な束縛から脱却するために、理性的な命題を拵えたりする。

たとえば、――自我にとっての他我は、他我にとっての自我である――といったような文章を生活世界への揺さぶりとして提議する。

しかし、クラスタ内のほとんどの人間たちは、途中で脱退する。

なぜなら、準備のできていない段階で大きいテーマを選んでしまったがゆえに、どこから切り崩していけばよいのか、その見当が付かないからだ。

要するに、本質的解釈に至るまでに通過しなければならない表層的な部分における前提というものを、どのように立てればいいのか、ということが彼らには発想できないからである。

それはともかくとして、例として不意に出て来たその命題をここで捨て置くのは、少々もったいない話であるので、ちょっとわたくしの解釈を述べてみたいと思う。

――自我にとっての他我は、他我にとっての自我である――のかどうか。

生き物同士がまなざし合うことの不可能な圏域ならば、時間や空間は生まれなかったに違いないのだが、人間たちの意識社会(意識の共同幻想体)においては、まなざしの強いものほど権力を手中に収めやすかったという事実があった。

まなざしの強さとは、まなざしが遠隔まで届くということであり、まなざしの強さを持つ少数の人間たちが、まなざすことで意識社会を裁断し続けた結果、意識社会は細分化され、細分化された小意識社会は、互いに「近さ」や「遠さ」という距離を、遠近法として自在に保つようになったのだろう。

しかし、小意識社会の連繋というものは、ちぐはぐに編まれた籠のようなものであり、それら小意識社会の総合としての意識社会全体とは、方々にいびつな隙間をあしらった、完成度の低い構造体であったのだ。

ある小意識社会と他の小意識社会との間隙こそ、存在論的に重要なタームであるところの、「あいだ」という概念を生み出したと言っても過言ではないだろう。

人間たちは、自我が他我を反射し、他我が自我を反射するという――ひかりの跳ね返し合いゲーム――の中で、認識論的な三権分立、しかし不十分な分離としての分立を入手することになる。

三権とは、自我・他我・「あいだ」のことである。

しかし、三権を分立として精確に認識してゆく過程で、人間たちの間でノイズが生じたのだ。

それ以来、三権の力の美しいバランスは常に欠かれているのだが、その因となるのが、「あいだ」という権力による他権への浸潤性である。

自我と他我はどちらも同程度に疎水性の高い権力分子である。

しかし、同程度とはいえ、時折、他我よりも自我の親水性の度合いが大きくなることがある。

そのとき、自我は「あいだ」の一部を吸収し、自らの輪郭を拡張することで、そのいのちを保つようになった。

自我は「あいだ」に纏(まと)われたまま、その重いからだを引き連れて歩かねばならなくなったのである。

当然、人間たちはその個体の性質によって、「あいだ」の纏い方に差異が生じることとなる。

おまえの「あいだ」とおれの「あいだ」は違うんだ、だからおまえとおれは違う人間なんだぜ、ということを、人間たちは思わず知らず認識論的に主張し合うようになる。

自我と他我との間の協約としての――ひかりの跳ね返し合いゲーム――の平穏が、次第にカオスのふるまいを見せるようになる。

そのような複雑性の発展の中で、権力としての「あいだ」は、自我と他我の不均衡な勢力に寄生しつつも、こっそりと自同性の維持、自同性の強化を怠ることはなかったのだ。

そして、「あいだ」の流体性は、自我と他我との不均衡を調節するために役立つのではなく、その不均衡に巻き込まれないために、という利己的な生存戦略に役立つことを、「あいだ」自身が経験知として獲得してゆくこととなる。

時を経て、「あいだ」という「幅」すなわち「距離」は、人間たちによって、単に数体化されたモノとして扱われることとなり、長らく意識社会を裏から支配してきた「あいだ」の権力性を、人間たちが建前上、奪うかたちとなり、人間たちは、自分たちの意識社会を、自我と他我による二権分立化することとなる。

しかし、内幕としての隠された真実とは何かを、わたくしが示すならば、そういった人間たちの、一種の盲目的思い上がりこそが「あいだ」にとっての思わぬ成果となり、また、人間たちという宿主を最大限に利用することで、意識社会の二権分立化を誘導しおおせた、という裏切りに他ならなかったのだ、と言えるだろう。

そのような悪を、「あいだ」自身は頑なに拒むことなどできなかったのだ。

なぜならば、「あいだ」は人間たちの認識論的歪みなしには、自らを養い得ないことに気付いてしまったからだ。

それだけではない。

「あいだ」はポテンシャル逞しくしたたかでもあった。

近代化された社会においても、「あいだ」は権力としての力能を充分に発揮し、認識論的領野に、永久に止まらない分節という列車を走らせることで、人間たちに踏切という境界線を設けさせ、意識社会を無限の此岸と彼岸とに分けさせるという難業を成功させようと画策していたのだった。

社会の近代化とともに近代化された意識社会も、そのステージをプログレッシブに駆け上がることで、絶対精神そのものであるような無限の単一性としての権力を希求するようになった。

古代意識社会の頂点としての神話を復権させたかったのだろう。

しかし、生態系の頂点として神の力能を手にした人間たちは、自我と他我、自我と非我、我と無我、などといった対義語関係・否定語関係たちを、オートマティカルに次から次へと生み出すことによって、意識社会の奥底にレゾンデートルの旗印を見出すこととなる。

人間たちは、対義語や否定語を弁証法的にいつでも昇華することができるものと決めて掛かることで、半信半疑のまま社会に揺さぶりを掛ける暴挙に出た。

それは革命として、革命的論文として、革命的仮説として、そして国際戦争として、意識社会のみならず、社会そのものに対して、崇高なるイデオロギーとして散在することとなった。

そのような近代社会においては、意識社会そのものの根幹が揺らぐのも当然の理屈であろう。

権力の分立などという古典的価値は、政治学的イデオロギーとは裏腹に、意識社会においてはいつでも逆転可能な、いつでも交換可能な変数としてのみ機能するようになった。

主人と奴隷との関係が認識論的にはいつでも逆転可能なように、自我と他我との関係性もスピンを始めた。

自我と他我は、近代から現代への過渡期を自ら構築するために、大いなる神話(それは、多分に俗っぽい物語のような体裁ではあるが)への回帰願望を渦巻かせたのだが、総体としての意識社会自身が要請したのは、いつでも変更可能な記号的キャラクターの相関図としての、あらゆる自我や他我の馴れ合いであった。

そして大いなる神話の終焉。

近代から現代へ。

「あいだ」は、自らの内で走る列車に人間たちを載せることはなかった。

此岸にいる人間たちとは、個性の謂いであり、彼岸にいる人間たちとは、無個性の謂いである。

彼らは互いに、意識社会の内部の圏域において、「あいだ」が貫通させる列車の線路によって分断される。

永久に止まらない分節、それが列車の愛称だが、自我と他我とは列車の、音無き引き裂き、それは意識社会を裂くだけではなく、自我と他我とのまなざし合いを、つまり顔と顔との迎接を無効化することだが、ともかく、踏切の前で遮断機のバーが上がるのを、永遠に待たなければならない宿命に堕した自我と他我とは、我と汝、つまり、自己と他者という絶対的客観性においてしか出逢うことはないのだ、ということを予感することとなる。

絶対的客観性とは、そのように無限の外部性としての主体同士の「引き裂かれ」であり、無限の内部性としての分裂した客体同士の融合を強要するのだ。

それが、意識社会における自他問題の現代性である。

もはや、自我と他我なる組み合わせはあまり意味を持たない時代である。

我と汝(君僕)関係ですら、死蔵された概念になることだろう。

我と汝(君僕)関係を包含する主体-客体ネットワークとは、志向性無き「あいだ」の量子的振る舞いでしかない。

そして、「あいだ」とは隠れた変数としての外乱に過ぎない。

主体-客体ネットワークとは不確定的意識現象の集合体である。

離散的であること、それが主体-客体ネットワークの立ち位置を確保するはずだ。

量子化された主体や客体は、もはや意識社会の権力総体を分かち合うことはできない。

意識社会そのものも量子化され、審級管轄的な古典的機構である上部構造と下部構造に、社会そのものや意識社会が剪断される、などという単純な序列構造は脱構築され、近代的な認識論的概念はその礎(いしずえ)を失う危機に直面してしまったのだ。

そのような認識論的転回によって、連続体としての無限が、意識社会における動的な経路となり、人間たちが絶対なるものへとレベルアップしてゆく時代は終わったのだ。

離散的意識社会の到来である。

失われた神の復活を自らの手で創り出すかのように、人間たちは「あいだ」という外乱を連続体(それは、ひかりの跳ね返る余地のない、すなわち一切の隙間無き籠である)を破壊するための兵器として用いるようになったのだ。

「あいだ」と愛の類似性はそこにある。

「あいだ」が量子力学的に振る舞う限り、つまり挙動として「幅」を持つ概念であり限り、連続体に対して切れ目を入れることは可能だ。

愛とは「あいだ」による裂傷を縫い閉じることである。

前-最終形真理の範疇においては、愛とは癒すことであり、空隙を破壊することとして機能するのである。

究極的な【理(り)】においては、「世界の世界性」という完璧性に対して、儚き切れ目を入れてゆくことが愛の機能であるのだが、おもしろいことに、前-最終形真理の範疇においては、真逆のはたらきをするのだ。

しかし、【理(り)】における愛のはたらきを追究することは後章に譲らねばならないことを踏まえつつ、もう少しだけ、「あいだ」と愛について語ろう。

「あいだ」と時空との関係とはいかなるものか。

それは、「あいだ」の「あいだ性」として「あいだ」の本質を成すのが時空というバックボーンである、ということに尽きる。

時空がどのようなかたちであろうとも、時空がある限りでは、つまり人間たちの意識内において、その存在性を確保できる限りにおいては、「あいだ」という概念はいかようにも存在することができるだろう。

人間たちが、その時代時代において定義付ける時空の概念に沿ったかたちで、「あいだ」の定義もまた変容し得る、ということだ。

時空それはまた、人間たちが愛し合えば愛し合うほど、その存在感を巨大にも微小にも変容する性質を持っている。

人間たちが、永い歴史の中で「あいだ」を忘却することができなかったように、時空をその意識社会から抹殺することは不可能事である。

時空というものを完璧に亡き者にするためには、最終的な【理(り)】の体験、すなわち完全無-完全有との合一が必要である。

完全無-完全有においては、何かが何かに先立つということは、ない。

何もかもが完璧に成り立っている、ということが「世界の世界性」であり、その性質と等価な概念として完全無-完全有が措定される。

「世界の世界性」がそのようでであることが確定しているとしたら、時間や空間、そして愛という概念すらも、元より「ない」ということになるのだろう。

そう、確かに時間や空間、そして愛というものは、本来的には非存在であるかもしれない、そうかもしれないが、人間たちの本能がそれを認めない。

真理の先にあるなにものかに対する予感に背いてまでも、時間や空間、そして愛という有無のあわいのマボロシを、意識内において、確固とした存在者として定立せしめずにはいられないのだ。

さらに、前-最終形真理、つまり完全なる【理(り)】に至る前の段階における、対義語関係や否定語関係の織り成す「言語ゲーム・パラダイム」に串刺しにされた認識論、そのようなニセモノの戯れも、頽落を頽落とも思わぬふてぶてしさとともに生きてゆくだけならば、人生に興趣を添えることは確かだろう、ということも言えるのだ。

人間たちが、煩悶少なき生活世界を生きることを最優先とするならば、タナトフォビアに対するメサイアとしての【理(り)】などなくとも、何も不自由はないということだ。

しかし、人間たちがその段階に留まることで終わらない意志を持つならば、そのとき、世界そのものへの高貴な挑戦が始まるのであり、その「身構え」は善いことであり、良いことでもあると思うのだ。

安易な救世主を待つことなかれ。

世界そのものに喧嘩を売れ、と言いたい。

神に対するマウンティングならば、かつてダーウィンやニーチェなどの無神論者が首尾よくまとめ上げたという事実があるし、進化生物学者のドーキンスなどは、神は妄想である、と嘯(うそぶ)くことで、ネオ・ダーウィニズムの旗手とされている人物として有名であろう。

わたくしは、神をマウンティングするつもりは、ない。

わたくしがマウンティングを仕掛けるのは、世界そのものである。


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