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『完全無――超越タナトフォビア』第二十七章
「世界そのもの性」への取っ掛かりとして、主語と述語との関係性は成立しないのだ、という認識についてまず吟味せよ、ということですかね。
「あるということはある」ですとか「あるということだけがない」ですとか「ないということはない」ですとか、そのような文章パターンにおいて見られるような「ある」の属性に反して、本来的、根源的、無一物の「ある」ということは、主語になる可能性も述語になる可能性も蔵していない、ということなのでしょう。
それこそが「ある」のありのままのあり方らしいのです。
たとえば、「すべてはある」といった文においては「ある」は述語になってしまっています。
また、「真実はあるということである」という文章も当然成り立ちません。
主語・述語関係の中でも特に等値関係をあらわすA=Bのような関係式のもっともらしさには気を付けねばなりません。
二つの概念、二つの事象の同一性は、たとえその二つが同じものであったとしても、真性の、いや真と偽とを超越した「ある」には間違いなくなれっこありません。
世界認識のために、もっと、いや最もシンプルになりなさい、という戒めに、われわれ生き物は魂の奥底からもしも触れることができたならば幸い、ということをきつねさんは匂わせていらっしゃつのかもしれませんね。
よっ! マイ師匠!
主体や主語という文法的概念とその操作は、世界の属性を決定する事項としては必須ではない、ということ。
そして、その主語に対応する述語も必要不可欠なものではない、ということなんですね。
確かに、主語というものは、一旦その席を世界に向けて差し出してしまうやっかいな代物でして、どのような個物や普遍者であってもピッタリフィットさせてしまいますよね。
主語は、文章という構造体の中ではいつでもどこでもチェンジ可能です。
そして、主語が変わるたびに、それに対応すべき述語も変わり放題ときています。
運命の赤い糸たる「=(とうごう)」を懐に隠し持っているのは、果たして主語であろうか、述語であろうか、という疑問符がしゃしゃり出ることになってしまいますが、そやつはきつねさんの【理(り)】にとっては、冒涜に等しい冗談のようなものであります。
「すべてはあるということだけである」などという安易な文章に信を置くと、ただちに「すべてはないということだけである」という安易な逆対応に着地してしまいます。
消滅を急がされている星々が互いに互いをさびしさから否定し合うのに似て、大変に無益かつ、星々は光輝に満ちているがゆえに、心の闇に触れられるようで、痛いですね。
そのような対義概念生成ゲームは、どんどん遠回りをしてしまうだけの効率の悪いアルゴリズムのプロセスに等しいのです。
要するに、主語と述語との関係性というものは、【理(り)】であるところの「ある」という二文字にとっては、けったいなお邪魔キャラなのでしょうね。
二色の独楽が廻り続けることはない、一色の独楽が廻り続けることもない、ある、という世界の裸形においては、何ものも完成してしまっていて、変化するとはない。
ふいにウィッシュボーン「世界とはつぶれかかった爪楊枝その尖端のミントの香り」というきつねさんの短歌をちょっと思い出してしまいました。
だから何? と問われましても、ぴったしかんかんの解答例を示すことはできかねますが。