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『完全無――超越タナトフォビア』第五十九章

(ふいに「愛……」と、ウィッシュことウィッシュボーンが魔法使いの弟子のようにつぶやいた。
三点リーダーの点々の継ぎ目から忍びやかに顔をのぞかせながら。
そしてわたくしは非情にも話を少し変奏させてゆく。
なぜなら、それこそが急務なのだ。
このマックで宿泊するわけにもゆかない。
わたくしは潔癖症で繊細なので、家のおふとんできっちりと睡眠したいのである。
わたくしは不眠症であるのだが、それは哲学や詩を好む生き物にとっては必須アイテムのひとつとして、常識的なエチケットだと思っている。)

喫緊の問題、それは、地球というかたちは微妙に楕円である、と人間たちは言うのだが、他の動物たちにとって地球のかたちとは、どのようなかたちとして認識されているのだろうか。

歴史的時空において人類が後々滅びると想定した場合、他の類の動物が人類並みの知的生命体として進化していることも考えられなくはない。

果たしてその生命体は、地球のかたちをどのように背景からくり抜くだろうか。

人類と同じ結論を明るみに放り出すだろうか、宇宙無き未来から宇宙誕生以前の過去へと自らの骨で放物線を描くだろうか。

もしくは、宇宙のどこかに存在するかもしれない地球外高度知的生命体ならば、たとえ人類における脳のような高度情報処理機能を所有していなくても、地球のかたちをユニークに認識するのだろうか。

結局のところ、「人間的スケール」で何か何かと同定したとしても、それは究極の【理(り)】には程遠い水平線の彼方の、さらなる水平線のパロディを掴んで人類がぬか喜びするだけの、他愛のない、しかし高尚な遊戯の残り香として、歴史的時空による淘汰によって此岸に打ち棄てられるだけだろう。

それでは、地球のかたちとは普遍的にどのようなものであるのか、と問われれば、わたくしの【理(り)】的には、答えなどない、定義などない、とわたくしは突っぱねることになるだろう。

何かがあるのは確実だと思い込んでおり、名指すことを生来の義務としてこしらえ続けてきた人間たちにとっては、地球のかたちとは地球のかたちという「名指し」でしかない、ということに気付かなければならないのだが、「名指せるもの」は何もかも、正しいか正しくないか、という選択肢に付すことができるだろう、そして、神の審判のような完璧な採決を下す能力が自分たちにはあるのだ、と早とちりしてしまっているだけではないのだろうか。

そのようなことを言ってしまえば、一部の信心深く折り目正しい人間たちの反感を買うかもしれないが、神の視点で世界を眺めやるなどという、安易なな観点に対しては一切忖度できない約束だ。

神の視点は、ない。

人間たちは、神の視点ならば、あらゆるモノとコトとを精確無比に定めることができるのだ、という根拠のない自身に取り憑かれているのかもしれない。

あらゆるモノとコトとを俯瞰的に配視しようが、あらゆるモノとコトとを、そのあらゆるモノとコトとに没入して、内側からいくら配視しようとも、あらゆるモノとコトとを定義付けした気分に浸れるだけであって、そのような感覚的に過ぎるドクサ(臆見)は、「世界の世界性」に対してどのような励起も誘導も触発も発動も催させることはできない。

神をどのように定義しようとも、つまり、神というものを主体もしくは客体としての存在者として、概念化しようとも、もしくは実体化しようとも、神の視点などというものは「世界の世界性」としての完全無-完全有においては成り立たない。

何かが何かに対して配視するためのスペースが――あらかじめすでにこれからも――「世界の世界性」においては、ない、のだから。

分節的であり連接的であり包含関係的でもある、内部と外部などという対立概念は、ない、のである。

何かが何かを乗り越えるということを、別様の何かが包含することはできない。

しかし、包含されない神というなにものかを包含することは、ルールさえ無視すれば、いくらでも外へ外へと設定する、すなわち無限というシミュレーションに陥るという弱点が、人間たちにはある。

だがしかし、対立する概念を弁証法的に乗り越えるということが、「世界の世界性」においてはまず不可能である。

主体/客体という対義語関係をシミュレーションすべからず。

そして、「世界の世界性」においては、小文字の主体と大文字の主体などという大小関係も成立しない。

何かと何かが照応し合うネットワークは、ない。

何かと何かが並進的な対称性を持つことも、回転的な対称性を持つことも、鏡像的な対称性を持つことも、ない。

人間たちが手のひらと手のひらを合わせるような関係性が構築される余地は「世界の世界性」には、ない。

あらゆる矢印は無効性のすでに存在しない闇に葬られている。

有限と無限とは――あらかじめすでにこれからも――完全無-完全有によって超越されている。

ありとあらゆる個物に主体性があろうとなかろうと、対義語によって定義できない「世界の世界性」においては、主体ということばを持ち出す限り、いたずらに選択肢を無限に増殖させる結果を招くだけである。

無限回数の思考の試行錯誤、人間たちはそのような趣味になぜか没頭しがちである。

斜線を引かれた主体のその斜線は、留まることを知らずに、完結することを厭うかのように、主体の思惑そっちのけで伸び続けるだろう。

主体を塗り潰すためのあらゆる線は、消せば消すほど、線と線との間隙だけが、初期宇宙のインフレーションよりも速く、膨張し続けるだろう。

主体を消しゴムで消去しようとすればするほど、主体は消しゴムのカス、それも無限に分裂する消しゴムのカスとして、ニセモノの世界(すなわち世界性無き世界)に充満してゆくだけだろう。

主体とは完全無-完全有においては、無意味性そのものである。

無意味性そのものを世界そのものが定義することはないのだが、何かを定義できたという確証を、理性のみによって持つことの可能な人間たちにとっては、無意味性ですら、有意味性との対比から何らかの価値を見出してきてしまうのだから、難儀である。

そのような芸当を歴史的に隠し持つことさえなければ、定義の脆弱性にさっさと溺れて、話としては早かったのだろうが。

積もり積もった「人間的スケール」の定義建築ももはや修復不能な段階まで劣化しているのかもしれないが。

今現在、残念至極なことに、人間たちの煩瑣かつ非効率的な既存の思想のほとんどは【理(り)】へのショートカットとは成り得ないのである。

詩を嗜む詩狐(しぎつね)が身勝手に見極めた、体感的なる【理(り)】こそ無意味性そのものではないか、といった反駁については、この作品が章を増築するたびに論駁しているはずだ。

わたくしはリアルタイムでたたかっている。

わたくしはわたくしとたたかっているのだ。


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