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『完全無――超越タナトフォビア』第二十五章
「世界の世界そのもの性」を、理性のあらゆる推理力を結集することで、袋小路に至るまでほじくり返し、解き明かしたというわけではなく、とりあえずのところは、そのように帰結しておけば坐り心地がよいから、といういわば消極的態度による全一性への盲目的依存という意味合いにおいては、従来の哲学や宗教、そして科学も、形而上学と形而下学とのせめぎ合いから抜け出せないでいるジレンマ的認識論にとどまっているに過ぎないと、きつねさんはおっしゃいましたね。
もちろん、きつねさんの言葉をそのままに受け取ってはなりません。
きつねさんであれ誰であれ、気分の高揚がエクスタシー方面に充溢したときには、自分自身を棚の上の神のように祀り上げてしまうことがあります。
きつねさんの哲学は、いや、きつねさんは非哲学などとおっしゃることのほうが多いのですが、意識や認識も含めたあらゆる表象において意味を成し、また意味されることを成すところの存在者に対して、個物と普遍の弁証法的昇華などという遠回りなアルゴリズムからの脱却を第一段階として、最終的には言葉の放擲による世界そのもの性の解き明かしにまで至ったというその経験知、たしかにそれはちょっと誇大妄想的なところはございますが、体験、体感、インスピレーションに詩的に裏打ちされたものであるがゆえに、神秘という言葉よりもさらに神秘な、いや神秘を亡き者にするほどの趣がありますね!
ウィッシュボーンにはきつねさんの得た道のりは、難易度の高い追体験になるのかもしれませんが、ウィッシュボーンが真の媒介者となるべく、記憶と理性をフル稼働して、まずは読者の方々に余すことなく伝えようとすることで徐々にその道のりに合流したいと願っております!
ウィッシュボーンは理科の授業が大好きでした。
実験小僧などと理科の先生にはニックネーミングされる始末でした。
そのウィッシュボーンがそういった理科系の学問について根源的には否定することになるのだから、今のうちからこころを引き締めておけよ、ときつねさんにたしなめられたことは、苦い思い出として生涯忘れることはできないでしょうね。
科学的理論や数学における公理や定理なんかも根源的には意味がないとおっしゃってましたから、きつねさんは。
根源的に、というのはどういうことなのか。
数を数えること、数を並べること、数を組み合わせること、数と戯れれば戯れるほど、世界の世界そのもの性から遠ざかってしまうということなのでしょうか。
ニュートンの『プリンピキア』よりもプリンを!
なんていう冗談をきつねさんが小さく絶叫することもなく、ウィッシュボーンにとっては不可解な日々が二、三か月ほど続いたことがあったのです。
人間も人間以外の生き物も、科学という名の合理的情報の恩恵は確かに享受しているだろうし(もちろん、その逆もしかり、ですが)、感謝すべき知の、そして血の宝であり、連綿とした人類の遺産であることには首を縦に振らざるを得ないことはわかりきってはいるのだ、いるのだがしかし、世界とはあれやこれやと解剖する前に、あらかじめすでに解剖されている身体のように、すでにして完膚なきまでに「ありのまま」であるのだから、つまりは、そういう世界になってしまっているのだから、あらゆる手立て、あらゆるシミュレーションなど詮無きことであり、神の手をもってしても、何を今さら手を下すべき余地があるだろうか、いや、まったくないのである、ということ。
きつねさんの、科学に対するわかりやすい解釈はこのような感じです。
ウィッシュボーンはどんどんと、わくわくてかてかと科学の方面には発展し続けてもらいたいという思いは秘めているのですが、そんなことでは、優秀な詩犬(しいぬ)になる道は遠いな、なんてきつねさんに心の奥底を引っ掴まれてしまいそうですね。
いまここにあるすべてが、すべてである、いえ、そう言ってしまうと、「=(イコール)」の記号が繋ぎ目として出てきてしまいますね。
そうではなくて、きつねさんとしては、「世界の世界性」の首根っこを捕らえるには、まずは等号という文房具のようなものを捨ててしまえ、といったような禅的な気構えを訓示してくださっているのでしょう。
もちろん、禅の深い奥義には目を見張るものは多々あれど、きつねさんは常々、仏教における禅的な方法論をも乗り越えねばならぬ、真に根深いタナトフォビアを克服し、哲学における未解決問題のすべてを解決するためには、禅的認識論では、革命的大転回は起動しないのだ、ともおっしゃっていましたね。