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『完全無――超越タナトフォビア』序章 第一節
この作品は、わたくしの最高の仲間であるチビ、ウィッシュ、しろ(三匹の犬)を気の利いた幕間として登場させ、軽快な会話してもらうことでをインターバルを置きつつ、わたくしきつねくんが思想の大いなる独り言を展開する、というかたちの新しい【非哲学】的試論である。
いや、試論なのか、小説なのか、エッセイなのか、ポエムなのか、チラシの裏の落書きなのか、判別できないほどに錯乱と狂気に満ちた雑文集に過ぎないかもしれない。
この作品が、わたくしがすでに脱却した死恐怖症、つまりタナトフォビアの人々や「死に至る病」を肯定したい人々への示唆、認識のコペルニクス的転回の無限連鎖を断ち切りたい強者、その他、在野的・秘教的に反哲学を超えた【非哲学】へとわたくしとともに足を踏み入れたい人々への「小さき救い」となれば幸いである。
わたくしがこの雑文体を新しい【非哲学】と呼ぶ所以は、既存の哲学における存在論をでき得る限り広く検分し、その表皮に見つけたほころび、それを逃さないことで既存の存在論のパラダイムを継承しつつも、それを乗り越えることに少しは成功しているのではないか、というささやかな自負によってわたくしを「新しさ」へと導いてくれたからである。
それでは【非哲学】とは何か。
既存の思想・哲学において電子ひとつほどのほころびがあるならば、つまりそのたったひとつの傷を突き止め、さらにわたくし自身の思想・哲学において、最終的には知を愛すことをやめなければならないほどに、知を愛することができたならば、わたくしの小さな思想、小さな哲学は【非哲学】となるであろう。
なぜならば、哲学とは知を愛することなのだから。
悪く言えば、単なる揚げ足取りの非哲学であるが、皮肉や悪意などという強欲な快活さには依拠していないことだけはこの段階で告げておこう。
さて、新しいものは破壊から生まれるのである。
既存の哲学を部分的に破壊し続けなければ新しいものは生まれてはこない。
生みと倦み、海と膿との相関性に配慮するように、哲学と新しい哲学とにおける近しさと遠さを両得しなくてはならない。
それは言葉におけるあらゆる様相からの逃走という名の反逃走である。
どのような類まれなる名著であっても否定され得る。
どのような大著であっても、たった一行の瑕疵のせいで、そこから失墜の破瓜が晩鐘を、つまり破壊の増幅が反福音を鳴り響かせることで、歴史的に自らとどめを刺さざるを得なくなることもあるのである。