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『完全無――超越タナトフォビア』第三十四章
(そのとき!
きつねくんが不意に言葉を、この作品の存在論的亀裂へと投入する。
世界の無名性が死のタオルを生成という名のリングに投げ込むように。)
ウィッシュちょっといいかな、ちょっと口を、このきつね口をちょっと挟ませてくれ……、ん? そうそう、そういうことだ、さすがウィッシュだ。
(と、ウィッシュボーンと何やら古代インドの奥義書『ウパニシャッド』における秘密を解読し合う形而上学的エイリアンの同士のように目と目で言い交わして、わたくしきつねくんは、わざとらしく咳払いをして、それは奥義書に貼られた付箋のひとつを丁寧に剥がすようなしぐさではあったが、とりあえずこのように言った。)
「意味ありげなものに弱いんだ、古今東西、人間というカテゴリーにおける哲学者というものたちは。
吸い寄せられてしまうんだ、意味の地平面の彼方にある、神秘とやらに。
吸い寄せられてしまうからには、吸い寄せられてしまう方の精神性に原因があるはずなんだ。
神秘を神秘のままに捨て置くことのできない高等遊民たちは、魂の底から懐疑をほじくりだしては、蜂がこっそり巣を構築する如く、いびつ極まりない楼閣を、こころの暗黒面において構築したがるのだ。
そうやって連綿と哲学史という名の「馴れ合い喧嘩」の、それも尻取り合戦に等しい帳尻合わせを続けることになってしまったのだが、現在における科学者たちの重箱の隅を突っつき続けざるを得ない研究スタイルと同義だ。
そして、そういった懐疑の解消、実験と観察による真理への道、それらはすべて、途中経過の歴史的継承という重大な任務でもあるのだが、そういった道、すなわち検証のプロセスがツリー型(樹木型)であれリゾーム型(根茎型)であれ、官僚型であれ脱官僚型であれ、伽藍型であれバザール型であれ、知性主義的な媚の売り合いクラスターの散在というものは、縦に横に時折ジャンプ、横に縦に時折接触事故、そんな抽象的光景をイメージさせるだろうと思うのだが、とにもかくにも、それはまさに、コンピュータゲームの『ドンキーコング』における主人公であるところのマリオの目的とその達成というプロセス型の具体的で主体的な行為性にそっくりなんだ」
(と、わたくしきつねくんは、リングの上で裸一貫、少々期待外れであったウィッシュの代わりに、見えるようで見えない敵とバトルするため、寧に着衣を脱ぎ捨てるように「狐っぽさ」を捨象しながら、熱量を増幅しながら言い放った。)
(するとどうであろう、一気呵成に言葉の糸をあたりに撒き散らし過ぎたせいか、わたくしきつねくんは全力でむせてしまい、チビとしろの二匹を大いなる眠り、氷河の奥のコインの影よりも静かな眠りから覚醒させてしまったのだった。
もちろんこのマックの店内に氷河的イメージを感得できる余地などないのだが……。
要するにわたくしは、ウィッシュの哲学的アンテナの感度を激しくアップさせてあげようとして熱血漢そのものに成り切って、もう少しウィッシュに対して発破をかけようとした矢先、チビとしろのなんだか、てきとうにほっこりとした、つまり「てきほこ」とした顔の空気感にほだされてしまい、気分としては、ウィッシュよ、タオルを投げて君を救ってあげる、そして君の後を継いで、論戦のドンパチの続きにケリをつけてあげよう、というモチベーションが一気に冷めてしまった感じなのだ。)
(こころの中でそんなふうに思いを巡らせていると、その刹那! ウィッシュボーンがそのまん丸い目をさらに丸くしながら、わたくしきつねくんの白いタオルが、どんくさい落下傘よろしくリングの表面という約束なき地へと舞い落ちるのを、悠々としたヘッドスライディングをキメることで難なく防ぎ、意気揚々としてその奪ったタオルを首に巻き、その凛々しい口元からは、言葉の波をまずは平らかに放出すると、やがて波形が高らかにになっていくのを確認しつつ、新たなる言葉をかたちにし始めた。)