
『完全無――超越タナトフォビア』第三十一章
ところで皆さん、ふと思い出したことがございまして、それがウィッシュボーンのみっともない知性の淵に釣り針を引っ掛けるものですから、前章の流から少々脱線させていただきます。
教団を構成するほどまでに、あのピタゴラスを虜囚化した数字なる奇怪なアイテムを用いて世界について解釈、解剖、説明、伝達いたしますと、詩狐(しぎつね)的な【理(り)】が立ちどころに濁り始めてしまい、潔癖症で完全主義のきつねさんには申し訳ないのですが、致し方ありません。
きつねさんに成り切ってほんの一行で言わせていただくならば、世界には本来的そして根源的には百万年後や百万年前などという時計的時間を枚挙する意思も意志もないということです。
ですが、きつねさんも社会的生活を送らねばなりません。トイレで用を足せば、手を何十秒くらい洗うか咄嗟の判断を求められ、厚めのハンドタオルでその手を拭きつつ、社会の窓がほんの数ミリメートルでもあいていないかチェックをして、さらに、そういえばこの駅からあの駅までだと運賃は何百円かかるのかな、などと思いを馳せながら、ホームへとつながる階段を何十段か運動のために一足飛びで駆け上がらなければならない、というように、日常のささいな一コマですら、数字と戯れざるを得ません。
そのように、生活に常に付きまとう性質の数字ではございますが、10000000年前であろうと、100000000000000兆年後であろうと、すべての枚挙性から解放されている本来的で根源的な世界においては、数字の羅列の組み合わせの数だけ差異を産み出し続ける時間、すなわち時計的時間というものはすべて、「今ここ」ということばに縮約される宿命に刻み付けられているのです。
どのように長い数字の羅列をあらわす時計的時間であっても、「今ここ」という短い言葉が代替物となってくれるということです。
そして、世界に遍満しているあらゆる個物、特殊性を備えた個性豊かなアイテムたちをあらわすことばたち、ナンバリングされることを常に強制される裸形の記号たち。
それらは、たとえば、生物、無生物、素粒子、クォーク、サブクォーク、点粒子、ほにゃらら粒子、ダークマター、ダークエネルギー、などなどと切りがないので、なんでもよいのですが、それらすべての記号の乱痴気騒ぎすべてのパターンは「今ここ」にある、という世界の表層的な性質に回収される、ということなのです。
そこまでならば、どのような哲学者であれ簡単に通る道でして、ここからがちょっとしたきつねさん的大道芸の隠し味なのですが、まずは「今ここ」ということばから「今」ということばを消去し、同時に「ここ」ということばも消し去り、だがそれがいい! と快哉しましょう。
きつねさんによりますと、前-最終的には、つまり表層的解釈においては、そういうことにしておいて、とりあえずはOKということらしいです。
とりあえずは、あるものすべて、そして、あることすべてから、あるものすべてそのものと、あることすべてそのものを焼尽することで、安易に獲得されるだけの単なる「無」、今この時点では偽の「無」としておきましょう、それをわれわれがまなざすことが【理(り)】への大いなる、そして第一の傾奇者的接近になるのです。
常識はかなぐり捨ててこそ、浮かぶ瀬もあるのです。
特定の位置すら持ち得ない、数学における純粋な点のようなもの、要するに目視できないものをまずは想起せよ、想起し続けよ、涙が涸れるまで目を見開け、ということかもしれません。
ウィッシュボーンはそもそものところ、きつねさんの哲学を完全には理解しておりませんし、その体感も十分に成されておりません。これから先が肝心要のチャンスかもしれません。
今日この場こそが、ウィッシュボーンがタナントフォビアを超絶的に克服するための好運の賭けそのものなのかもしれませんね。