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『完全無――超越タナトフォビア』第二十一章

世界とは「あるだけである」という前-最終形真理、それをさらに超えて究極の【理(り)】に近づくための認識手段とは、そのような絵のようなものとして捉えるのが、初心者には打ってつけ、ということなのでしょう。

一枚の絵のようなもの、というよりは、無ひとつ分の絵のようなものを想起せよ、といいましょうか。

とにもかくにも、世界のすべてが封じ込まれているに等しいその絵のようなものに対して、あらゆる生き物はそのイメージの力を最大限に飛翔させなくてはなりません。

絵という現象がお気に召さないならば、映像という現象に置き換えてもいいよ、とこの前きつねさんは諭してくださいましたが、映像的想起ですと、視覚だけではなく、聴覚的な表象をも同時に認識可能なので究極の【理(り)】に近付きやすいかもしれない、ということです。

だがね、映像よりも絵のほうが哲学としては何だか素敵なくらいふさわしいと思わないか、ウィッシュ、ともおっしゃっていらっしゃいました。

まあそれに関しましては、好みの問題ではございますが、ウィッシュボーンもほんとうのところを申しますと映画や動画やテレビジョンなどの映像よりも、絵画やイラストなんかのほうが、実は好きなんです。

それにしても、無の絵とは何でしょうか。

特異点や消失点のような、あるひとつの点に集約されてゆく世界、それはつまり無に吸収される世界なのですが、むしろそのようなスタンスでもいいのではないかと若干、心が揺らいでしまいそうですが、そういった想起はきつねさん的にはロマンティシズムに欠ける、ということなんでしょうか。

真理を越えた【理(り)】に近付く、とはどういうことなのでしょう。

真理とは【理(り)】である、もしくは【理(り)】とは真理である、といった主語/述語関係を超え出る【理(り)】とは、純然たる浪漫主義の産物であって、ただ近付こうとすることしかできない概念なのでしょうか、それとも、実際に【理(り)】そのものを世界として体感できるものなのでしょうか。

ますます混迷を深めてしまいましたね、まだ第二十一章なのですが。

ウィッシュボーンの思考能力はたしかに浅いのですが!
ウィッシュボーンもきつねさんも、一応は詩を書くロマンティスト!
無という名の絵こそすべて!
この表現そのものに!
まずはこころをときめかせたいのですが!

そんなつぶやきはともかくといたしまして、まず基礎中の基礎、つまり初歩のレベルにおいては、はじまりもおわりもない世界(世界を宇宙と読み替えても一向に構いません)をこころのあらゆる領域を総動員してトータルイメージする、という脳内修行が、【理(り)】に接近するための手がかりになるのだと、とにもかくにもきつねさんによりますと、そういうことらしいのです。

もちろん、【理(り)】に近づくことで、なんらかの認識の変換が生起する可能性もあります。

こうやってみなさんの前で語りつつ、ウィッシュボーンを含めたすべての読者の認識が思わぬところでどんでん返しを喰らう可能性もあるのでしょうか。

ウィッシュボーンが常々気がかりに感じているのは「ある」ということが真に実在し、絶対的に普遍的な何ものかであるかどうか、ということです。

たとえば世界における絶対的普遍的価値として、人間には認知されている、変化や因果関係などという「物理的はたらき」は、本来的にはまやかしであって、実のところは「ただ単に、今ここに、絶対的なもの(つまり、あるということ)がある」ということである、という認識に到達することならば、既存の哲学や、既存の宗教的認識論の手を借りれば、たやすいことではあります。

しかし、きつねさんはそのような保守的態度をお許しにはなられません。

さらにその文全体から無駄な部分を削ぎ落としていくために、つまり、絶対と相対という対義語や「今ここ」という位置を持った定点(その点によって過去や未来という幅が生じてしまうような概念)を批判的に乗り越えるために、余計な品詞を吟味して吟味して可能な限り消去し、シンプルきわまれり、という段階を経ることを手ざわりとして自覚しつつ、たとえばその文章であるならば、文末の「ある」だけが痕跡として残存せざるを得ないような認識に飛翔するごとく到達せよ、とおっしゃっていらっしゃいました。

そうすれば、世界に対する真の認識者は【理(り)】に近くなる、【理】に漸近してゆくのだ、ということのようです。

日本においては日本語を用いるのが簡便ですので、その中でもひらがなを用いるならば、「ある」という二文字にまで世界を究極的に凝縮できるということなんですかね。

地球には、世界各国それぞれ使用言語によって「ある」という概念のエクリチュール的・パロール的差異がございますが、そういったニュアンスの誤差に関しましては致し方ありません、とこの作品においてはうっちゃっておきたいと思いますが、とにかくシンプル・イズ・ベスト! それを目指せ! だそうです、きつねさん的には。

古代ギリシアの哲学におきましては、本質存在(……である)と事実存在(……がある)とではどちらが優位であるだろうか、などとということが辛気臭く争われたことがあったらしいですが、そのどちらの「ある」も、きつねさんいわく、真理のもっと奥へと突き進むにつれて剥ぎ取るべき部分が剥がれる余地を残した不完全で不正確な表現である、ということで却下すべし、ということだそうです。

そもそもの話が、古代ギリシア人のように、何かと何かとを比較するようになってしまっては永遠にふりだしに戻り続けてしまう、ということらしいです。

ソクラテス以前のシンプルな考え方に戻れ、といった立場の学者の方々が二十世紀あたりにはいらっしゃいましたが、きつねさんは、そういう方々の意向に近いようで、さらにシンプルさを追求していらっしゃるのでしょう。

ギリシア哲学といえば、ソクラテスさんなんかは、ウィッシュボーン、大変好みではあります、はい!

今月の十日あたりから、ちょうどプラトンさんのいくつかの著書を読ませていただいておりますが、ソクラテスさんが主人公として登場し、あれやこれやと対話の相手方を説き伏せてマウンティングするために、まずは相手の話を引き出すだけ引き出すその姿が、粘着質で素敵で不愉快で上から目線で余裕派で、不思議な魅力がございます。

最終的にはソクラテスさんを論破する人物などほとんどいないに等しいのですが、長々と語り始める段階のソクラテスさんは、実に爽快かつ勇壮なのであります!

おっとすいません、ウィッシュボーンそういえば、無という名の絵のお話について語っている途中でした……。

無という名の絵、そういった絵をみている主体という存在者は、存在し得ない、つまりは「ない」ということにもここでちょっと触れておかないといけないでしょうね。

それを怠りますと、きつねさんにとことん怒られてしまいます。

その風変わりな認識こそが【理(り)】に限りなく近い地平線の発見につながるためのアイテムなのですが、とくに人間という生き物は真理ということばに無矛盾的に適合する何らかの事物の正統性を、そのつど場当たり的につくりだし、吟味するためにいったん踏み止まることで、存在者が間違いなく実体として現実態として実存し、事物の正統性という真理について観察し、解剖し、反芻することによってそれに絶対の価値を置いて、とりあえずは真理というベッドに横たわって自己満足に浸りたいようなのです。

かくかくしかじかという事物の本性は科学的に正統であり、この正統性は完全性100%に対する誤差は無に等しいくらいの数値であるから気にしなくて良い、ともかく我らのこの時代における「今ここ」においては真理であって、いつか覆される真理であろうとなかろうと、とりあえずは絶対的な価値を置こうではないか、と曖昧かつ消極的な態度で真理をいうものを設定する傾向が強いのです。

なぜならば、その方が論理的に効率がよく、科学で商売をするにも最短経路で事の成り行きが進むからであります。

真理というものをとりあえずは大きな声で宣伝しておけば、哲学的解釈などの余計なことを考える手間が省けてしまうからです。

とくに人間は言語を獲得してしまったことで、既知の事象という場から、未知の事象という場へと思いを馳せてしまえるがゆえに、世界に対する混濁した論理を混濁そのものには気付かずに、つまりほんとうの【理(り)】からすればわざわざ世界を濃霧で覆い、認識の視界をひどく曇らせ、既存の公理の歪んだ塔を歪んでいるとも知らずに崇めたまま、立ち往生しているふうに見えるでしょう。

とかなんとか言いつつも、ウィッシュボーンもこのように、人語を獲得したことで、人間の言葉に依存的に関係しつつ半ばは恣意的に使用せざるを得ない、つまり常に自分自身の言葉に確実な信頼を置きながら、認識の歩みを進めることができずに模索しているような次第なのですが。


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