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『完全無――超越タナトフォビア』第二十二章
語り得ぬことだから沈黙すべきだ、という哲学的名言かつ明言かつ迷言に関しましては、きつねさんは眼中にはございませんようでして、近似値を叩き出すために言語ゲームを楽しみつつ、言葉の全能力の精一杯の好運をつかみとれ! というのが信条だそうです。
言葉を過大評価して闇雲に世界に発動させていると、世界におけるとてつもなく狭いエリア内において、無限の言語ゲームごっこが続いて、それはそれで一般的レベルの地平においては、ほほえましい遊戯に見えなくもないそうなのですが、そうやって言葉を知悉してしまっている生き物だけが、それを言葉として認識できる認識者に対して、内輪の馴れ合い的に使用することに執着すると、馬鹿らしいくらいに観念のお手玉の見せ合いを続ける、牧歌的な(ウィッシュボーンは、牧歌に親しんだことはありませんが)そして、世界全体や全存在者に対する気遣いのない、知らず知らずの思考停止状態に陥るのだそうです。
そういえば、言語を操れない生き物もまだまだたくさんいらっしゃいます。
人間原理的な評価軸を優先した、おそろしく狭義な言語という意味合いによる束縛から脱して、生物多様性を愛でつつ、言語以外の言語のようなものを駆使する彼らにとっては、真理とはいったいぜんたい何なのでしょうか。
人間的言語構造なき存在者における真理とは、どのように組み立てていくのでしょうか。
もしくは、石には意思や意志はあるのか、なんて先走り、よし突き止めてやろう、なんてマウンティング感覚で、身勝手に無機物の環世界におけるルールを荒らすのは、言語とやらを獲得した生き物による差別的で、本格的に機能不全に陥ってしまったエゴイズムの無軌道なる暴走に近いのではないでしょうか。
ははは!
きつねさんは、何々イズムや、何々論というありきたりな、知性を安易に匂わせる言葉を使いたくはないみたいですが、ちょっとわたくしウィッシュボーンにとって印象に残っている、きつねさんのことばを思い出しつつ、この今の語りに援用してみますね。
「世界そのものを比喩的かつ一般的学問レベルの単語に落とし込むならば、世界はただそこにあるだけなのだから、世界のあだ名として、唯有論(ゆいうろん)でもいいし、唯全論(ゆいざんろん)でもいいし、唯在論(ゆいざいろん)でもいいかもしれない、と定義づけることは不健康な思想ではあるまい」
などと、怒気には似ても似つかない、精悍かつ、覇気そのものが喉から飛び出してきたような口調で、きつねさんは、去年の秋口でしたか、誰もが気温差と季節の変わり目とのダブルショックで心身共に病みがちであった、あの秋の、あの乾きつつもやわらかい西陽差し込む秋の、どこかのおとなしい公園のベンチの前で、滔々とそうおっしゃったことをウィッシュボーン、只今思い出してしまいました。
きつねさんは、そう言ったあと、世界ってただあるだけじゃすまないのさ、と付け加えましたが、それは、ワーグナーの歌劇における「ゴットフリート」の「フリート」の「リ」の部分の巻き舌的痙攣にも似た震えがきつねさんの両手に走ったことを、そのとき見逃すことはできませんでした。
きつねさんは寒がりなんですが、ちっぽけな寒さゆえに震えが伝播したわけではない、と直観させる何か不気味な、そら恐ろしい色調が、そのときの景色には匂い立っていたのです。
ウィッシュボーン、そのときの記憶が今まざまざと蘇ってまいりました。
しかしウィッシュ、大切なことはさ、ときつねさんが切り出し、ウィッシュボーンはすかさず、目に見えない、と言いかけようとして、やっぱり黙っておりましたら、きつねさんがおもむろにこう叫んだのです。
世界ではない!
世界の唯一性だの、世界の全体性だのでは断じてない!
世界とは、唯有論(ゆいうろん)、唯全論(ゆいぜんろん)、唯在論(ゆいざいろん)、そういったイージーに熟語化されてしまった言葉による言葉の定義そのものでは絶対的にあり得ない!
そんなものでは、タナトフォビアの人々どころか、死に対して余裕綽々の強がりさんすらも救いはしないのだ!
「唯(ゆい)」なる文字をタイトルとして冠するすべての書物から目をそむけよ!
きつねさんはそのとき、かすかなかすかな唾を飛ばしつつ激昂したフリをしていたんだと思います、ウィッシュボーンにはわかるのです。
きつねさんは潔癖症なのですが、常にちっちゃなポーチに収蔵しているウェットティッシュで口を拭うこともなく、そのままくちびる周りの唾の残りかすを、墓石を這う蟻のごとくに軽く無視して、透明な雰囲気でしゃがみこみこんだかと思うと、新たに言葉を紡ぎ始めるためなのか、やおら立ち上がりました。
そのとき、きつねさんの顔からは、よろこびが無限の曼荼羅の配置図のように拡散してゆくのが見えたのでした。
そしてこのように言葉をつなげたはずです。
世界という全体、それに抗い、それを否定しようとする生き物の意志の中で最も美しく儚い概念とは、愛を含めた「絆」という宝物なんだよ、ウィッシュ! と。
きつねさんは、西陽から顔をそむけて、雲を背に少し苦々しく笑っていらっしゃいました、いや、たしかに笑っていたはずです!
豪胆かつ繊細な笑いが口角にまとわりついて、風下のきつねさんに常に圧をかけていた風たちがおずおずと、きつねさんの背後へと吹き去ってゆくのが見えたのです。
そのような記憶、ウィッシュボーンには今でも鮮やかで、シーンの鼓動すら聞こえてくるのです。