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『完全無――超越タナトフォビア』第六十二章

少し話頭を転じよう。

生滅を繰り返すことなく宇宙が反復できるとしても、その繰り返しが無限であるかどうか、ということは確率論的には未定であろう。

サイクリック宇宙論、すなわちエンドレスなユニヴァース論なるものも、理論物理学において、れっきとした(インフレーション宇宙論、ブレーン宇宙論、M理論などと肩を並べているかどうかは微妙なところではあるが)宇宙論として、それなりの幅を利かせてはいるようだ。

さてここで、少しばかり夢を見るために、いや、単に話のネタとして、宇宙の反復は必ず無限回に及ぶのだ、と仮定してみるとすると、全く同一の生という現実も、幾度目かの宇宙においてはあり得るわけだから、特にタナトフォビアの人々にとっては「めっけもん理論」なのではないだろうか。

タナトフォビアの人々の一部においては、おそらくその程度の夢物語(前-最終形真理)でも、まごころから信用してしまう危険性があるということは否めないが……。

さて、宇宙が繰り返すそのたびに、宇宙に対してマイ・ナンバーならぬユニヴァース・ナンバーを、神のような存在者が登録し、その懐にそれを保存しておくとするならば、ついうっかりと神が同じナンバーの宇宙を起動させてしまうという、そのようなハプニングな未来に遭遇するかもしれないではないか、という旨い話も不可能ではない。

確率論的には、全く同一の宇宙の、全く同一の全行程という成り行きを想定することも十分可能である。

いや、無限である限りは、必然的にそのような偶然性が完備されているはずである。

さて、宇宙におけるすべての因果関係を把握できるのは、神のような存在者のみであろうか。

宇宙におけるすべての因果関係を把握できるのは、宇宙そのものであろうか。

いや、その程度の情報量ならば、いともたやすく操作できるほどの高度な知力を有する存在者が一種類存在するだけでもよいのではないだろうか。

神や宇宙の手を汚すまでもない。

そのようなやっつけ仕事ならば、たとえば地球外高度知的生命体のような存在者をこの章に登場させるだけでもよいのではないだろうか。

わたくしがここで高度として推定しているのは、あるタスクを完了させるのに量子コンピュータならばグーゴルプレックスのグーゴルプレックスプレックス乗程度の時間を必要とするが、彼ら地球外高度知的生命体ならば、プランク時間程度の数値しか必要としないような能力レベルのことである。

無限に繰り返される宇宙という舞台演劇ならば、神を超える存在者が登場してきたとしても、何もおかしくはないではいか。

むしろ、ハリウッド脚本術をきっちり踏襲した鉄板の作劇として、一般的には評価されるのではないだろうか。

たとえば、神を超える存在者が神との共同作業において、このような不平を漏らすことも考えられる。

「神よ、あなたは時折ナンバリングを間違えますね! 
今日からこの仕事はわたしがやります。
神よ、あなたは一度逆立ちでもしてみるべきなのです」

神と、神を超える存在者とが、ダークエネルギーの物陰で、身体をもっと鍛えるべきか、まずはウォーキングから始めるるべきか、などと会話を弾ませていたとしても、無限回の宇宙の中では、なんら不思議なことではない。

それにしてもである。

神や神を超える存在者などという、大仰な話題ではなく、世界において小さくされているような存在者、そうわたくしきつねくんのように、社会において常に搾取されてきたような存在者についても、この章で言及しておきたい。

すべてのみすぼらしくも美しいそこらの小石たち、彼らは自らの存在を存在論的に思考したり、存在論的に体感することはないのだろうか。

そこらの小石たちを、神をも超える存在者として仮定してみることは、多分に興趣をそそるストーリーの展開になるのではないだろうか。 

人間たちにおける、死の免れなさへの同毒療法としてのタナトフォビアは、苦に満ちた生への「投げ出され」と等価であるが、道端に文字通り投げ出されている小石たちには、果たしてそのようなタナトフォビアが存在するのかしないのか、

無限にサイクルする宇宙の幾度目かにおいては、人間たちの理性的認識力を遥かに凌駕するようななんらかの生き物が、主役を食う勢いで、小石たちのタナトフォビアや愛を証明してみせるかもしれないではないか。

そのとき彼らは、人類を滅ぼすことのできるほどの権力を手に入れることだろう。

人間たちを滅ぼし、生態系の頂点に君臨する地球全体の王族となってもおかしくはないのだ。

その程度のどんでん返しならば、無限回の宇宙においては可能ではないだろうか。

そして、小石たちは、地球全体の王族たちの庇護の下で、愛を発現させるチャンスや、タナトフォビアを克服する術を会得する機会を窺っていることだろう。

道端の小石たちには、愛やタナトフォビアは存在するのかしないのか。

それは、人間たちにとってみれば、とても無様で、とても清らかな問いではないだろうか。

無限に繰り返す宇宙、などというシナリオは、そのようなちょっとしたロマンにも優しいのだ、いや優し過ぎるのかもしれない。

「世界の世界性」からかけ離れ過ぎた、このような前-最終形真理においては、オママゴトのようなシミュレーションも大胆に可能であるところが、清々しい幕間としての慰安にはなるのだが。

さて、次章では、時間や空間とのリンクとしての愛について、ほんのちょっぴり触れてみたいと思う。

ただし、愛について語るということは、語る主体の頽落を要請する、ということに注意して頂きたい。

つまり、愛という、「世界の世界性」にとっての最大の仮想敵と対峙するためには、前-最終形真理の地平に立ち戻らねばならない、ということである。


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