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『完全無――超越タナトフォビア』第八章
語りえぬことについては語り尽くさなければならない。
雄弁に。
沈黙は金だが、雄弁は銀ではなくて、そこらの石ころでなくてはならない。
石ころとは真に英雄的な、あらゆる色を超越した旗によって囲まれた神聖なる権力者たちである。
そして、真の雄弁とは自己の内へと究極的に沈潜し、浸食し尽くしたのちに無となるほどに語ることである。
世界を語るというその際には、まずは無に接近しなくてはならない。
沈黙は自己を自己の外へと限りなく膨張させるだけだ。
ほんとうの世界はビッグバンのように膨張しているわけではない、とわたくしは直観認識している。
世界には隙間などなく、距離という幅も本来的にはなく、すべてが今ここに「ある」、という認識のヴェールを剥がすことで現出する無へと魂を委ねることこそが、「前-最終形真理」から【理(り)】への架け橋なのではないだろうか。
疑い、探り、シミュレーションすることを忘れてはならない。
しかし、それを「しばいぬじ君」に諭してあげる必要性はないよね。
柴犬の「しばいぬじ君」には「しばいぬじ君」の「しばいぬじ君」的信念ってものがあるんだから。
(と、わたくしきつねくんが饒舌になりかけたところで、
しーろー、こんなぽっちゃりだけどぉ、たぶん、はばがないとおもうよ、じつは、ぐふふぅ。げふんげふん。
と、しろが身をよじらせながら――きっとそれは素粒子のスピンよりも目に見えてかわいいだろう――マックのポテトをその口とおんなじくらいに大きく頬張りながら言ったのだ。)
(わたくしきつねくんは、しろ、そしてチビ、さらにウィッシュボーン、すべての読者に到るまで、微笑みの一瞥をくれると、おもむろに思惟の重さの恩寵に身を沈めつつ、また大切な思想の歩みをゆっくりと力をこめて進めるのだ。)
真理にしろ、真理を超えた【理(り)】にしろ、頭でっかちな、知識量だけは申し分のない人間たちが語り合おうとも、ピンとこない場面に出くわすことが多いのだが、案外、幼い子たちがポロッとこぼしたつぶやきにこそ、有識者やら学者やらが無節操に撒き散らす真理以上のなにものかが含まれているのかもしれない、とも思うのだ。
とくにしろの言葉は、ほんとうに常々取りこぼさないようにしようと思っている。
ただし、真理を超えたところにある【理(り)】はことばではない、という前提だけは覆せない。
しろであろうと、どのような存在者であろうと、ことばというものはことばにとっては有能な紳士・淑女かもしれないが、世界そのものに対しては、人相の悪い糞虫でしかないのだ、と認める方が、後々のダメージ、つまり真理を超えたところにある【理(り)】に邂逅する前の、無知蒙昧な己に対する後悔の念が少なくて済むだろう、ということだ。