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『完全無――超越タナトフォビア』第四章
そうしてきつねくんの語る番がやってきた!
そうしてきつねくんが本格的に一人称に徹する役がまわってきた!
たとえば、チビたち含め読者の方々にはこんな状況を想像していただきたい。
もしも、とてつもなく大変な危機(それはもうウイルスどころの話ではなく)が起こり、世界のあらゆる場所を探しても、自分ひとりだけしか存在しない、という進化論的・終末論的状況に置かれたとしたら、そのヒト科の生き物は、神に対する祈りをどのように扱うのだろうか、ということを。
地球上にたったひとりきりで地を踏みしめるとき、どんな風であっても、独存者(どくぞんしゃ)の神に対する祈りを、おんなじ風に変えてしまうだけなのではないだろうか。
あらゆる風はもはや神を知らぬ。
なぜならば、世界に遍満しているのは神ではないということを、独存者たるたったひとりのヒト科の生き物はあらかじめに識(し)っているからである。
しばしの沈黙のあとに彼は誇らしく語るだろう。それはAIがおのずからこころを希求して、おのずからプログラミングの改変をおこなう、そんな瞬間のいとおしさに似ている。
他者とは地獄である、などと分析的つぶやきに身をやつす如く、
自己満足的に、運命とやらに鉛筆のように削られ続けていられるだろうか、おれは、と。
もしくは、あらゆる海やあらゆる空から意味を剥奪したような、冷淡で厳かなる鏡に向かい、映る己に向かって、どのようなことばを(あるいは、己自身を)投げかけることが可能だろうか、おれは、と。
やがて、彼は語ることに疲れ、
おもむろに座禅を組んで、
世界は諸行無常だとか、
世界は一切皆空(いっさいかいくう)だとか、
「ある」わけでもなく、
「ない」わけでもない、
それこそが仏教という宗教における「空」の思想なのだ、
などと諦念で不条理をやり過ごし、
半ば夢うつつに、
そして、こぼれ落ちるバームクーヘンのかけらよりも支離滅裂に「思い成すこと」を世界の辛辣さに対して発動させながら、
さらに、「思い成す」ことそのものがチープであることを自覚しながら、けっしてAIでは思いつかないようなオリジナリティあふれる瞑想によって、セルフ・マインドコントロールすることになるのだろうか。
マックの店内において、チビたちを前に、そしてそれは読者そのものに対する発話でもあるのだが、ともかくわたくしの唱えるところの【理(り)】のひとつ前の段階としての「前-最終形真理」のレベルから世界というものをあれやこれやと探っていこうと思う。
その「あれやこれや」こそが、(真の、奥底からの、無限よりも奇怪な)タナトフォビアを超越し、哲学における究極の謎(それは、いまだに未解決問題であるのだ)に対して物申すための材料なのである。
まずはその段階、つまり「前-最終形真理」の境位に到達しなければ、認識のパラダイムシフトへとつながるプログラムが始動することは、どんな種類の神によっても不可能なのではないだろうか。
たとえば、仏教における菩薩の修行階梯は五十二段階ある。
人間ってやつは何事につけ階段というものをのぼらざるを得ないのだなあ、ふむふむ、とわたくしはチビたちに向かって微笑しながら小首をかしげつつ、読者の方々においては、精神の屈伸運動などしつつ哲学的探究への準備運動をしておいていただけたらなあ、なんて思いを馳せているのだ。
ではなぜ、最終形そのものではなくそのひとつ前の真理なんか持ち出すんだい、というと、
本当の真理、それはもしかすると奇異な物言いなのかもしれないが、
わたくしは本当の真理というものは言葉や文字ではあらわせないと確信しているからである。
言葉や文字である限りは究極的な真理すなわち【理(り)】には到達できないのではないか、と勘繰っているのだ。
たとえば、「ある」という二文字をイメージすることで真理と一体化できる、といったとき、その真理ということばは根源的には精確な表現ではない。厳密性を欠いている、ということだ。
最終段階のひとつ前の形態である真理であるがゆえに「前-最終形真理」とわたくしが勝手に呼んでいるからといって意義無き記号だと思うなかれ。
追々、【理(り)】という究極のこのシステム(前段階の真理を無効化するような認識)の完成形をお目にかけたいという欲望はあるのだ。結果の優劣はともかくとしても。
さて話を戻して、
先に触れた、終末論的運命の苛烈なるひとひねりによって存在論的に世界から放り出されるかもしれない彼(独存者)に思いをとばそうではないか。
ヒト科の生き物の最後の存在者を、慰撫するごとく想像するにあたり、
前もって認識しておくべき準備段階としてちいさい課題をクリアすべきなのだが、
それはつまり、
生まれる前において、
わたくしたち生き物が存在者として存在していなかった、
などということはあり得なくて、
全方位的環境の中で、
全宇宙的物質まみれの世界の中で、
循環的に、分散的に、偶有的に、粒子的に、回転的に、離散的に、ともかく遍満していたであろうわたくしたちという生き物、
それを想像できないでどうするのだ、と怒声から怒りという文字を少し抜き去って、大いにわたくしは叫びたいのである。
狐の分際でありながら、である。
つまり、誰もが皆、簡単な論理的存在連鎖の遡行を想起すればよいだけのことなのだから。
すべての因果関係を辿ってゆけば、辿り着くのは世界(まあ一般的にいってて、それを宇宙と呼んでもよい)のはじまりであろう。
どのような事物も因果関係を辿ることが可能だというありきたりなテーゼ(もちろん、哲学者や物理学者の中には、因果を否定する方々もいらっしゃる)。そして、それこそが「前-最終形真理」の示すひとつの存在論的本質である。
しかし、それは最終的な【理(り)】ではない。
なぜならば、宇宙とは、はじりもなくおわりもない世界なのである、というフェーズにひとまず到達することが、この作品におけるもっとも肝要なるテーマ、つまり、わたくしきつねくん的【理(り)】における真骨頂であり、
真と偽(ぎ)とを超えた世界把握のマスターキーなのである。
世界に「もしも」はあり得るのか。
IFの世界は成り立つのかどうか。
もう何もかが起こっているのかどうか。
どんな困難も、
どんな理不尽な状況も、
陰惨を極める不条理も、
もうすべて完成されているのかどうか。
つまり、
シーシュポスも、岩も、徒労も、あらゆる不条理も
全時間的には存在しないのかどうか。
読者の方々やチビたちの前でお話しつつ(つまりそれは、この作品を書いていることと同義なのだが)、わたくし自身も読者の方々やチビたちとともに謎解きをしていく、そんなエンタメ要素も若干含んでいるつもりではある。
だがしかし、ほとんどわたくしひとりで書きつつ話すことになるかもしれないが。それはもうすべて決まっていることかもしれないから、仕方ない。