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『完全無――超越タナトフォビア』

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哲学における究極の未解決問題「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」を解決するとともに、タナトフォビアで苦しんでいた過去の自分を、四年掛かりで自ら救った、新しい思想を総括するマ…
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2020年11月の記事一覧

『完全無――超越タナトフォビア』第六十二章

少し話頭を転じよう。 生滅を繰り返すことなく宇宙が反復できるとしても、その繰り返しが無限…

『完全無――超越タナトフォビア』第六十一章

「動」が「静」に帰結する、あらゆる形態の計算式の解が定まること、それが有限という概念であ…

『完全無――超越タナトフォビア』第六十章

【理(り)】に接近するためには、山ほどの常識的判断を焼却しなくてはならない。 そのひとつ…

『完全無――超越タナトフォビア』第五十九章

(ふいに「愛……」と、ウィッシュことウィッシュボーンが魔法使いの弟子のようにつぶやいた。…

『完全無――超越タナトフォビア』第五十八章

完全無-完全有の完成形としてのパズル(それは粗大でも微細でもない)の(当然、メタファーと…

『完全無――超越タナトフォビア』第五十七章

ある粒子、そして、ある粒子と区別されるところの粒子、粒子同士の位置関係、粒子同士の行動パ…

『完全無――超越タナトフォビア』第五十六章

突然ではあるが、振り子時計の振り子をあなたがじっと眺め入るシーンを思い浮かべてみてほしい。 なぜいまどき、そのような古典的な時計を餌に哲学的な戯れ言を開陳しようとしているのか、などといぶかしげに肩をすくめないでいただきたい。 今ここで、三百億年経ってもたった一秒の誤差しか生じないスーパークロックの話題を持ち出す必要はない。 二台の時計が、2掛ける10のマイナス18乗程度の誤差の範囲内、というその驚異的な精度で一致する、などという精確性コンテストともあまり関係がない。

『完全無――超越タナトフォビア』第五十五章

何をどのように心配しようとも、何をどのように楽観視しようとも、何をどのように苦しもうとも…

『完全無――超越タナトフォビア』第五十四章

人間たちよ、過去や未来、さらに今というなにものかに視線を注ぐことなかれ。 求められてもい…

『完全無――超越タナトフォビア』第五十三章

頽落した人間たちは哀れである。 頽落とは進化であり、進化とは退化である。 生き様と死に様…

『完全無――超越タナトフォビア』第五十二章

科学にしろ一般的な思想にしろ宗教にしろ、反常識的・本来的に、つまり非頽落的に鑑みるならば…

『完全無――超越タナトフォビア』第五十一章

ある、ということなど、どこの誰でも当たり前のように、素朴実在論的に、見知っていることでは…

『完全無――超越タナトフォビア』第五十章

しろ 「ものごころぉ?」 チビ 「もの、ごころ」 ウィッシュ 「ウィッシュボーン、はやく大…

『完全無――超越タナトフォビア』第四十九章

二〇二〇年代の今(※この作品のそもそもの着想は二〇一四年ではあるが)、宇宙は膨張しているという仮説が宇宙論的に地球エリアで優位を占めている。 しかし、宇宙の行く末を、無限の大きさをもつ超数学的な点に吸い込まれつつある過程であると仮定することも、理論物理学者ならば可能であるし、ビッグバン宇宙論とはまったく異なる仮説をわたくしが持ち出したとしても、誰も――科学的には――直接証明を成すことなどできない。 だが、はっきり硫黄、いや、言おう。 どのような宇宙発生論であれ、どのよう