「お客さまー、不幸フラペチーノ・トールサイズでございまーす」
雨ですね。ああ雨ですね。雨ですよ。
某星場にて、中年マダム2名が、誰誰が裁判沙汰になったとか、誰誰が精神病になったとか、誰誰が自殺未遂した、誰誰が不倫しているとか、誰誰の子供が引きこもりだとか、誰誰の旦那さんは出て行って帰ってこないみたいとか、私だって離婚するつもりだったとかの話題を嬉々として話している。
嬉々。
嬉嬉嬉。
嬉嬉嬉嬉嬉嬉。
実に、うれしそうである。
他人の不幸を話題として、話す。
深く考えなくても、これは人間としてもっとも忌み嫌われる界隈の世間話ながら、それを嬉しそうに話す。
マダムAの口から速射砲のようにエクスポートされた下世話は、マダムBの耳にもれなくインポートされ、100%の共感とともに承認される。IT界隈では、リアルタイム同期というような技術がここでは実現されている。
歩きたばこや釣りをしながらくわえタバコを吸う人のうち、ほぼ100%が吸い殻をポイ捨てする。
そんな気がするが、それぐらいの比率でマダム渦中の人物が貶められる。
話題には常に被害者がいて、お互いに「ねー、可哀想にねー」と笑いながら話している。楽しそうである。
こういったどこにでもある会話を聞くにつけ、週刊文春やクソ女性誌界隈、情弱向けのTV番組の方向性については間違っていないのだよなと思う。ターゲット設定面は間違っていないのだろう。
どんなに情強勢が週刊文春バッシングなどをしても、それは正しいのだ。
他人の不幸は蜜の味、などという言葉がある。
人は自分に利害が絡まない人の不幸となると、フラペチーノなみにチューチューすするのである。
翻って自分の場合はどうだろうか。チューチューすすっているのだろうか。ババア化しているのだろうか。あーあのとき、すすっちゃったなー。ちょっと反省である。
「お客さまー、不幸フラペチーノ・トールサイズでございまーす」
他人の新鮮な不幸がつまったフラペチーノを喜んでチューチュー吸いながら、残量がなくてってもズーズー吸うようなマーケットがこの世にはある。
わたしは、とりあえず、ズーズーまでは吸わないようにしよう。
そう思った。