トキシック・マスキュリニティを穿つ矛となれ:勇気爆発バーンブレイバーンの話をしよう
勇気、爆発していますか。
※この記事は勇気爆発バーンブレイバーン第10話までのネタバレを多分に含みます。視聴済みの人向けのnoteです。
早速ですが、過去のnoteの下書きを以下に抜粋します。
嘘です。
ある面では対話と連帯の物語でもあると思いますが、10話までみた現在、私は違う見方をしています。
それは、このアニメはトキシック・マスキュリニティを解体する物語なのではないか……? という見方です。
10話現在、繰り返したループの全貌やハワイ島の秘密などわからないことは盛りだくさんですが、その辺りの世界観のことは置いておいて、本noteではトキシック・マスキュリニティとその破壊というテーマを軸にここまでの物語を読み解いてみたいと思います。
はじめに
筆者の姿勢
この記事は前述したような目的を持って書かれていますが、製作陣はきっとこのつもりで作ってるに違いない! とか、テーマはこれに間違いない! とかいうつもりはさらさらありません。
10話までの物語を概観した時に可能であるひとつの読み方を、11話以降に備えて一度まとめておきたい、というのが主旨です。いうなればただのオタ活です。
また、異常な展開の速さで10話までを駆け抜けたブレイバーンの話をする都合上、展開の全てに触ることはできません。テーマを論ずるのに必要と思われるところだけを抜き出すことにご留意ください。
トキシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ)とは?
さて、さっきからなんの説明もなくトキシック・マスキュリニティという言葉を使っていますが、一度ここで定義を確認しておきたいと思います。
トキシック・マスキュリニティは、伝統的な“男らしさ”の規範が孕む負の側面を指す言葉、というのがわかりやすい定義ではないかなと思います。有害な男らしさ、とも訳され、こちらの方が日本語話者にとっては直感的にわかりやすいかもしれません。
この語について深く掘り下げると到底紙幅が足りなくなってしまいますので、詳しく知りたい方は以下のリンク先など参照していただけると良いかと思います。まとまっていて読みやすい記事です。
このnoteの前提にしたい項目は、
①トキシック・マスキュリニティとは、男らしさの負の側面をいう言葉である
②トキシック・マスキュリニティは、男性の生き辛さを説明するための道具にもなる
といったあたりでしょうか。あくまでも強調しておきたいのは、“男性”を批判するための概念ではなく、社会的に構築されてしまった“男らしさ”という規範の有害さ、それに縛られることの(男性を含む)社会全体にとっての危うさを批判的にみる概念であるということです。
そもそも“男らしさ”という規範自体が明確に言語化されている類のものでもないため、以下のnoteで取り上げる項目は、もしかすれば誤った拡大解釈や筆者の偏見を含むかもしれません。もし配慮の行き届かないところがあれば、指摘していただければ幸いです。意図のあるなしは問題ではありませんが、現実の何も傷つけるつもりはありません。
明確な「有害な男らしさリスト」のようなものがあるわけではありませんが、ここでは2019年のニューヨークタイムズの記事に頼ろうと思います。
こちらの記事によれば、有害な男らしさとして以下の振る舞いや信念が含まれているようです。
・感情を抑圧すること、苦悩を隠すこと
・たくましい見かけを維持すること
・力の指標としての暴力 (“タフガイ“らしい行動)
基本的にはこのあたりを基準としていこうと思います。
単騎特攻:実戦だったら英雄…..か?
さて、トキシック・マスキュリニティという観点からまず確認しておきたいのは、繰り返される単騎特攻のモチーフについてです。
単騎特攻はヒロイズムに満ちた行為であるかもしれませんが、裏を返せばそれは強さを誇示するのみならず、自己を顧みない、他者の助けを必要としない(してはいけない)というある種の有害な規範の結実であるように思えます。
1話のイサミ
イサミの全盛期とも名高い1話Aパート、約15分の短いいのちでしたが、ここでイサミは上官であるサタケの命令を無視し、単独で目標に突っ込みます。
管制室やヒビキの反応から、イサミのこの態度が単なるイキリではなく、高い実力に裏付けされた自信の表れであることがわかります。もちろんイキリでもあると思います。
その後ろを、当時まだ少尉であったルイス・スミスが追います。そこには海兵隊としてのプライド、自衛隊への対抗意識のようなものがあるのが伺えます。スミスは無人機の砲弾に被弾して戦死判定となりますが、イサミは無事目標まで辿り着き、チームを勝利へと導きました。
この演習後のシーン、酒場でスミスはイサミに話しかけます。
「君のあの判断、俺は正しかったと思う」
「部隊の集結を待てば相手にも対策を講じる時間を与える。その分、突入時の損耗も増えていた」
「実戦だったら英雄だ」
私はミリタリ方面は全く詳しくないので、イサミの行動やスミスの言っていることがどの程度正しいのかはわかりません。ただ、二人とも減俸処分を受けており、スミスに至っては便所掃除まで付けられているので、軍隊(自衛隊)という規律の中では受け入れられない行動であることは二人ともわかっているはずです。
しかし、この時点でスミスとイサミはある程度同じ方向を向いているのがわかります。まとめるのなら、自分一人が危険に晒されるとしても、それが集団の益になるのなら肯定すると言ったところでしょうか。
これは、1話冒頭でも挟まれるスミスのモノローグを聴いていれば容易に理解できる考え方です。
冒頭スミスの独白「子供の頃、俺は、赤や青のぴっちりスーツに身を包んだマッチョメンになりたかった」が示す通り、スミスの指すヒーローはある意味で“男らしい“存在なのでしょう。
スミスはヒーローに憧れている。ヒーローというのは、有害な男らしさの塊のような存在です。(※私はヒーローもののオタクです! ヒーロー概念に逆張りしたいわけではなく、そう読むこともできるよねという話です)力を誇示し、弱いものを守り、責任を負う。助けを求めるのではなく、自らの強さで道を切り開く。それは、伝統的な価値観で言えば“男性”が負っているべき役割だということができるでしょう。(もちろん、それが実際に現実の男性の負うべき責務だと主張するような意図は微塵もありません)
とはいえ、この時点では、このエピソードはただ単に彼らのTS操作の腕前と精神性を示すためのものであるように見えました。所詮は演習ですし、取り立てて問題にするようなことでもありません。
しかし、物語が進むと少しずつ見え方が変わってきます。
8話のスミス
一方的に交わろうとしてくる胡乱な淫蕩ロボ、クーヌスに迫られ、仲間たちが弄ばれる中、スミスはひとつの決意をします。
ルルを緊急脱出させ、クーヌスに肉薄する。外部装甲をパージし、いっそ抱き抱えられるような至近距離で、砲弾が炸裂する。
イサミ、勇気だ……! 勇気、爆発だ…… !
してしまいましたね、実戦で単騎特攻。
もちろん、演習の時とは状況が違います。クーヌスは明らかにスミスに異常に執着しており、仲間は死の瞬間を何度も弄ばれている。こちらの兵力では明らかに勝てない。スミスにだってこれしか選択肢はなかったのです。
また、8話時点ではかなり自爆覚悟の特攻に見えましたが、9話の様子と監督のツイートを見ると、生きて帰るつもりはあったようですね。
しかし、どんな意図があろうと、結果としてスミスのしたことは自分一人が犠牲になり、仲間を守るという、最高にヒーローらしい行いです。ここではその後ブレイバーンになったとかは一旦脇に置いておいて(9mのロボをどかす絵文字)、人間ルイス・スミスとしての行動とその受容を見ていきましょう。
9話、スミスを失ったイサミは荒れに荒れます。曲がりなりにもここまで一緒に戦ってきたブレイバーンの言葉すらイサミの耳には届きません。怒りに任せて振るう斧ではデスドライヴズを倒すことなどできず、苦戦を強いられます。一度はすっかり心が折れ、失意のうちに目を閉じてしまいます。
また、これは10話以降でわかることですが、未来からやってきた大人のルルの精神が入っていないルル──かつての世界線のルルもまた、スミスの死を深く嘆き、悲しみました。大人になっても壁にはスパルガイザーのポスターが貼られており、その傷の深さは想像がつきます。
有害な男らしさは確かにひとつの勝利をもたらしたものの、男自身を死なせ、周りの人間を傷つけた。このようにまとめることができるのではないでしょうか。
実戦だったら英雄。1話での言葉通り、単騎で突っ込み、味方の損耗を最小限に抑えたルイス・スミスの行動は、確かに英雄的です。1話のイサミと8話のスミスはある意味で繋がっている。ただし、物語がこの行動を肯定してしまうことには違和感がありました。なぜなら、仲間に期待せず、自らの強さのみで突き進む単騎特攻の精神は、5話までかけて否定したはずのものだからです。
対話と連帯:思い上がるな!
5話のボクシング
ここで5話のボクシング回を思い返してみたいと思います。
私はこのアニメに対して、常々「普通なら主人公が思い詰めてオワリになる展開を尊厳を破壊することでギリで回避しているな……」と感じていましたが、一番それが強かったのは5話です。
皆からヒーローと祀り上げられ、期待に応えなければとぎこちない笑みを浮かべるイサミ。こんなの、全裸でシャワーを浴びてガンギまった挙句不幸な結末を迎えるのが目に見えています。
そもそも、イサミは自分の弱さを認めるのがすごく苦手です。2話の強化尋問のシーンが一番顕著でしょう。イサミはブレイバーンと繋がっているわけではなかったのだから、いくら吐けと言われても吐きようがありません。そんなイサミが、苦しい尋問の果てについに吐き出したのは「あの戦場で俺は何もできなかった。戦うことも、逃げることも……」。
ボブに聞かれたことには答えていません。しかし、イサミにとってはこれは「本当のこと」であり、尋問されてようやく吐き出せる程度のものなのです。無力な自分を認めるのにここまでの労力がかかるのは、自分は強くなければならないという規範に縛られている側面があるからなのかもしれません。
そんなイサミだから、周囲から期待されている状況で弱音など吐けるはずがありません。
しかしなんと、イサミにもここから入れる保険が存在しました。それはルイス・スミス。彼は、イサミの気負いに気がつき、その精神面のケアを試みます。
悩んだ結果出した答えはボクシング。なんでや! と言いたくなりますが、これがイサミにとっては効果覿面でしたね。
「仲間に死んでほしくない」「現在の人類の技術ではデスドライヴズに打ち勝つことはほとんど不可能である」「だから自分とブレイバーンだけでなんとかしなければならない」
これは、イサミの状況を思えば仕方のない主張ではあると思います。ただし、弱いものを守るために自分だけが戦えば良い、というのは、前項でも主張したようにヒロイックでもありトキシックでもある考えだと言えるでしょう。
おおよそこのような本音を引き出したスミスは、イサミに連帯パンチを放ち、仲間の存在を理解らせます。
「ここにいる誰一人君に守ってもらおうなんて思っちゃいない!」
「それなら、君はどうなる? 君が死んでも誰も悲しまないと思っているのか?」
完璧です。素晴らしいぞ、ルイス・スミス。私も手を叩く淫蕩ロボと化しました。
仲間に助けを求められない、自分のケアも上手くできない、そもそもヒーローとして祭り上げられているのだから不満なんて表に出せない。
有害な男らしさに縛られまくりだったイサミを、スミスはボクシングでもって解放したと言えるでしょう。無理やりに本音を引き出し(なんなら全世界に生中継し)自分の感情を表に出させ、仲間を頼ることを示し、自分の命を大切にしてほしいと訴えた。
かくしてボクシング回は、イサミにかけられたトキシック・マスキュリニティの呪いを解く特効薬のような働きを果たしました。
これ以降もイサミは責任を感じている描写がちらほらとありますが、6話冒頭では宣言通りスミスがブレイバーンとイサミに帯同しており、イサミの側から通信を寄越したりなんかして、完全にわからせパンチが効いています。
5話をもって、1話の感情を表に出さず単騎特攻も辞さないイサミは完全にボコボコに破壊されたのだと、視聴していてそう感じました。
トキシック・マスキュリニティ・リターンズ:Become a Hero
単騎特攻、再び
そんな感じで5話までかけて否定したはずの単騎特攻の精神ひいてはトキシック・マスキュリニティ、のはず、でしたが……前述した通り、スミスが8話でそれを行います。
みなさん、9話のイサミ見ていられました? 私は見ていられませんでした。
「もう誰も死なせたくない」と吼えた男が、最悪の形で大事な親友を失ってしまいました。それも、一人で全てを終わらせようとしていたイサミに連帯わからせパンチを放ったまさにその男を。
こんなの、もう誰にも背中を預けられなくなって当然です。9話のイサミは、「やってやる!この命尽きるまで!」とちょっと危ういキマり方をしてしまいます。
また、(ここでは話がややこしくなるのでタイムリープの件にはあまり踏み込みませんが)10話でルルが必死に阻止しようとしたイサミの出撃も、単騎特攻に類するものであったのでしょう。
人に頼ることをせっかく覚えたのに、当のスミスが死んでしまったので(9Mになって隣にいますが)5話前のイサミに逆戻りです。完全に“一人で気負って”いると言っていいでしょう。望まれたヒーローとしての務めを果たすため、たくましく振る舞う。5話で払拭されたはずのトキシックさがふたたび現れています。
正しく悲しまないこと
また、スミスの死について、イサミに悲しむ暇を与えない作劇も印象的でした。
Brave Knights の面々で墓を作り、スミスの死を悼むその場所に、イサミはいません。少し離れたところで、一人だけ正装で、何かを決意するようにただ一人唇を噛み締めています。サタケ隊長とすれ違いますが、言葉を交わすことはありません。
また、ブレイバーンのイサミに対する言葉がけも一貫しています。9話は戦闘中という理由もありますが、10話に至ってもブレイバーンは「悲しみに明け暮れず前を向こう」というメッセージを発し続けます。
それは確かに、ヒーローとしては正しいのかもしれません。ですが、悲しみというある種弱い感情、弱い自分に向き合わないこと、悲しみの価値を認めないことは、かなりトキシック・マスキュリニティに囚われた仕草であるように感じます。もしかすればそれは、両親を亡くした時のスミスにとっての生存戦略であったのかもしれませんが。
集合写真に書き込まれた“Become a Hero”の言葉通り、スミスの死を深く受け止めたイサミは全ての痛みを一人で背負う“ヒーロー“に逆戻りしていきます。
5話で否定したはずのドツボに、W主人公が二人で陥っているのです。こんなことがあっていいのか?! このアニメのいう“本当の勇気”ってのは有害な男らしさのことなのか?!
ジャパンのカリー、うまかったなぁ
主にブレイバーン主導で続いていく、トキシックな二人のトキシックな関係性は、ひとつの悲劇的な未来につながります。
右半身の潰れたイサミ。死したイサミに語りかけながら機能停止するブレイバーン。
大人ルルの精神転移による干渉がなく、イサミの単騎特攻を止められなかった世界では、デスドライヴスとの戦いには辛勝したものの、世界を救ったヒーローたちはみな死んでしまいました。明言はされていませんが、ATFも壊滅状態であったと思われます。スミスとイサミの犠牲によって救われた世界。
ヒーロー映画ならここでエンドロールが流れてもおかしくないでしょう。ヒーローがラスボスと相打ちになり、世界は守られ、残された人たちはヒーローのことを思って生きていく……間違いなく悲劇ではあるものの、英雄的で、感動的な結末であるようにも思われます。
しかし、残されたものたちはそんな結末を良しとはしませんでした。
時空と有害な男らしさを穿つ矛となれ:未来からスミスとイサミ救うヒーローになる
勝利≠ハッピーエンド
成長したルルは、すっかり平和になった世界で、ミユやスペルビアと協力しながら精神転移を可能にし、8話直後の時空に戻ってきます。
確かに世界は救われているのに、ルルはそれを否定する。ヒーローも救われなければならないと、未来から過去に向かって手を伸ばす。
8話直後に戻ってきたルルは、自分のタイムラインが辿った結末を変えるため奮闘します。10話時点でわかっていることは、
覚悟ガンギマリのイサミを引き止める
スペルビアの
ハジメテをもらう相棒になるイサミとブレイバーンと一緒に戦う
こんなところでしょうか。
上の二つは最後の目標のための手段でもあるので、大人ルルが絶対にやらなければならなかったのは「イサミとブレイバーンと一緒に戦うこと」だったのでしょう。
これは、繰り返されてきた単騎特攻のモチーフの否定であり、ヒロイズムと表裏一体なトキシック・マスキュリニティの否定でもあります。“男らしい”ヒーローの犠牲によってもたらされる勝利や平和は、この物語の想定するハッピーエンドではないのです。
続けてくれ、ルテナント
また、ルルはイサミに悲しむ時間を与えてくれます。ルル自身にそのつもりがあったかどうかは定かではありませんが、制服も階級章も置いて一人飛び立とうとするイサミを絞め落とし(なんで?)スミスの部屋に放り込みます。
パンイチで手足を縛られ、亡くしたばかりの親友の部屋で目覚めるイサミ。いつもの #イサミかわいそう ですが、これはイサミにとって必要な時間だったと思います。
床に落ちているトリコロールTを目にしたイサミは、涙を浮かべてそのTシャツに顔を埋めます。お前……やっぱりちゃんと悲しいんじゃないか! 泣いちゃうくらい辛いんじゃないか!そりゃそうだ!
こうなっちゃうほどの悲しみに包まれたまま、涙を流す時間もなく、もうこれ以上誰も死なせたくないのだと一人で出撃することを選んだイサミのことを思うとかなりしんどいものがあります。
一旦パンイチ緊縛を挟む必要があったかはさておき、すっかり単騎で突撃するつもりでパイロットスーツを着ていたイサミがここで裸に剥かれ、ATFの共通する服装であるつなぎに着替えることになったのもかなり意味のある演出です。
一人で戦うつもりだったイサミは、ルル(とプラムマン上級曹長)の手によって人の輪の中に引き戻されたのです。その意味で、10話はルルとスペルビアにとってのボクシング回であるだけでなく、イサミにとっても5話のボクシングと近い意味を持っていると言えるでしょう。
こうしてルルは、イサミの陥っていた「仲間を頼らない」「自分の弱さを認めない」「自分の感情を気にかけない」トキシック・マスキュリニティ仕草を力技で粉砕しました。
今度こそ本当のハッピーエンドを迎えるために未来からやってきたルルの行動を見ていると、10話までは「ヒーロー」という概念に付きまとう有害な男らしさを破壊し、本当のハッピーエンドを目指す物語であるというふうに総括できる気がします。
本心を伝えること:日本ではそれをOMIAIという
イサミのトキシック・マスキュリニティをボコボコにしたところで、まだ問題は解決していません。そう、それは、ブレイバーンとイサミの関係はどう考えても不健全だということ。
どうしたルイス・スミス
正体がわかる前から、ブレイバーンはかなり怪しいロボットでした。イサミに向ける視線にはどう考えても性欲が混ざっているようにしか見えないし、訳知りハンサムフェイスをずっと続けているけれど肝心なことをイサミには話してくれないし……でも、人外だから仕方ないか! 多少関係が不均衡でも何か崇高な目的のために頑張ってるんだよ! イサミへの愛が本当なら他には何もいらないよ!
???「俺はずっと……イサミを抱いて戦っていたんだ!」
なぜ? どうして5話であんなにパーフェクトコミュニケーションしてくれたスミスがそんなことになってしまうんですか?
イサミへの異常執着は一旦措きましょう。真に問題なのはイサミとのコミュニケーションです。無垢な上位存在とのコミュニケーションであれば歪であっても飲み込めましたが、中に24歳軍人・イサミの親友が入っているのであれば話は別です。人間対人間のコミュニケーションとして、ブレイバーンとイサミのそれはあまりにも不均衡であり、不健康です。
8話の「黙れ!(台パン)」で浮き彫りになった通り、イサミはまだスミスと築いたほどの信頼関係をブレイバーンとは築けていません。もちろん信頼が0だとは言いませんが、スミスの戦死を知り冷静さを失うイサミにブレイバーンの声は届かない、これが現状です。
スミスは一人で理解りを得て満足そうですが、イサミにとっては全然よくありません。この関係、不健全すぎる……でも公式的にはロボと人間の関係はこれでいいことになってるのか……? と思いながらずっと視聴していたのですが、10話で格好の比較対象が現れました。
ルルとスペルビアです。
健康な愛の交歓
ルルとスペルビアは、オワリの世界線においてかなり深い信頼関係を結んでいたようです。そのルルの精神が入った現在のルルは、未だ心を開いていないスペルビアと“一つになろう”と奮闘します。
1話からずっとそうですが、このアニメはなぜかパイロットがロボットに乗ることをセックス扱いしています。搭乗は実質セックスなのです(本当になんで?)
パイロットがロボに乗ることをセックスと捉えるのであれば、1話のイサミとブレイバーンなんてほとんど暴力みたいなものです。十分な説明もなく、命の危険がある中で仕方なく選ぶしかなかったものを、同意とは言えないでしょう。
もちろんさまざまな経験を経て、少しずつ イサミからブレイバーンへの信頼も育ってきているとは思いますが、前述したように全幅の信頼があるかというと素直には頷けないのではないでしょうか。
スペルビアがブレイバーンに「ルル」を乗せることについて相談した際、ブレイバーンは「最高だぞ……!」とか「私とイサミのようになれる」とか言っていましたが、果たしてブレイバーンとイサミのようになっていいのでしょうか? 本当に? ブレイバーンは一番大事なことをイサミに伝えていないのに?
ルルとスペルビアは、時にはガガピー語を交えながら語り合い、肉体をぶつけ合い、真にわかりあうことで、正しく信頼関係を構築しました。ブレイバーンは自らの正体を伝えませんが、ルルはすぐさま精神転移のこと、未来での出来事などをスペルビアに開示します。自分の事情を相手に話した上で、力を貸してほしいと頼むこと。自分を受け入れてもらい、相手を受け入れること。これが…….これが正しいロボットとパイロットの、いえ、人格対人格の健全な関係なのでは?!
ルルとスペルビアのやり取りを見た後で、ブレイバーンとイサミの方が良い関係だと言える人は少ないのではないでしょうか。そういった意味でも、ルル(とスペルビア)は主人公たちの負わされた役割とは正反対の存在です。
ルルは、イサミにまとわりついたトキシック・マスキュリニティを剥がすのみならず、イサミとブレイバーンの不健全な関係とも対置される存在として配役されているのではないでしょうか。だとすれば、最後の最後にはきっと、ルルとスペルビアのようにイサミとブレイバーンも腹を割って話すタイミングがあるのでしょう、あるといいな、本当にあるかな…….?
常に遮られる本音
この項目は、有害な男らしさという観点からは少し外れるかもしれません。が、イサミとブレイバーン(スミス)の対話、という点で少しだけ触れておきましょう。ブレイバーンの中のスミスの割合が不明ですが、ここではヤングマリーンスミスとある程度ひと繋がりの人格がブレイバーンの中にあると仮定して話を進めます。
イサミとスミスは、5話以降腹を割って話し合うことが多かったと思います。特にイサミからしてみれば、何度も自分の本音を引き摺り出した相手ですから安心感もあったでしょう。
しかし、この二人の会話は肝心なところで遮られることがとても多いです。
5話のボクシングでは、スミスがイサミの頬をグローブで挟み、昂る感情のままに何かを伝えようとしますが、プラムマン上級曹長に「そこまでにしておけ」と遮られてしまいます。またイサミも、ブレイバーンと共にスミスの元にやってきますが、「俺は、お前と…..」と言いかけたところでルルのヒートビーム(キック)を食らい、空母から転落します(そんな)
また、8話でもスミスが何か言おうとしていたのを遮るようにイサミが「なんだよブレイブナイツって」と口を挟み、スミスも(本心を飲み込んだようにも見える)奇妙な間を置いて「Pretty cool、だろ?」と答えました。
最も顕著なのは10話の、大人ルルがやってきた世界線でのブレイバーンとイサミでしょうか。「ずっとお前に言いたいことがあったんだ」と機能停止直前にこぼすブレイバーンの言葉を、イサミはもう聞いてはいません。あの様子で生きてはいないでしょう。
つまり、この二人はずっと、一番言いたいことを伝え合えていない関係なのです。
10話までのこうした展開を見ていると、やっぱり最後には対話とそれに伴う信頼構築があるんじゃないかなと思えてきます。ここまで何度も繰り返し本心を伝えることを遮ってきた以上、大きなファクターであることに間違いはないのではないでしょうか。
終わりに
こうしてまとめてみると、イサミーブレイバーン(スミス)とルルースペルビアは本当に対称的な存在だなと思います。イサミとブレイバーンが、“ヒーロー”概念に付きまとう有害な男らしさを克服し、真のハッピーエンドに至ることができるのか。監督が「人間讃歌だ」というこのアニメがどんな結末に着地するのか、あと2話を楽しく見守りたいと思います。
ここまで読んでくれて嬉しいぞイサミィーーーーッ!
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