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欲望について(ホーキンズ博士『 I <わたし> 真実と主観性』より)

こちらのマガジンに、ホーキンズ博士の著作における記述を引用した記事をまとめています。かなり以前に書いた記事も、見つけ次第マガジンに追加しています。

そして、このマガジン向けに書いた最新の記事がこちらです。

その記事では人間の意識レベルがパワーの領域(200以上)へと進化する直前に立ちはだかる強力な障壁となるプライドについてのホーキンズ博士の解説を紹介しました。すでにパワーの領域にいる人々にとってもプライドは常にしつこく足を引っ張り、意識のさらなる進化を阻む厄介なアトラクターです。とくに意識レベル500以上の霊的な境地を目指している探求者にとってプライドはもっとも手強い存在だと言えるでしょう。

いっぽうでプライドは意識レベル175で計測されるように、ネガティブなフォースの領域においてはもっとも高いところに位置しているアトラクターでもあります。これが意味しているのは、プライドはより低い領域にいる人々にとっては前進・成長するための強力な動機でもあるということです。このことについては上の記事で詳しく述べさせていただきました。


■7つの大罪における欲望の占める位置

さて、今回とりあげるのは欲望です。

欲望もまた人々を駆り立てる動機としては非常に強力であるだけでなく、人間の持つ動機としてはプライドよりも根源的でもあります。ゆえに、より多くの人々が欲望にとりつかれ、執着しています。伝統的な霊的修行の過程において禁欲が重んじられるのも、欲望が意識レベルを下方へと引っ張り下げる重荷であることを示唆しています。

ちなみにカトリックの教義には7つの大罪という概念が存在していますね。この7つの大罪というものは実は聖書には書かれていないのですが、一般的によく知られているものなのでここでちょっと見てみましょう。7つの大罪とされているのは、①傲慢 ②強欲 ③嫉妬 ④憤怒 ⑤色欲 ⑥暴食 ⑦怠惰 です。これらをホーキンズ博士の意識のスケールに対応させると、下記のようになると思います。

傲慢 >> プライド(175)
強欲 >> 欲望(125)
嫉妬 >> プライドと怒りと欲望(150?)
憤怒 >> 怒り(150)
色欲 >> 欲望(125)
暴食 >> 欲望(125)
怠惰 >> 無気力(50)

嫉妬をプライド+怒り+欲望としたのはわたしの見立てですが、たぶん妥当だと思います。それ以外のものについては異論はないことでしょう。このようにしてみると、7つの罪のうちの4つはその本質が欲望にあることが分かりますね。つまり、それだけ欲望は強大なアトラクターフィールドを持っているということです。当然ながら、意識レベルを高めていこうという努力のなかにおいては、さまざまな欲望と向き合い、これを手放していくプロセスが不可避となります。


■人間の営みの原動力としての欲望と、強欲について

それでは博士の解説を見ていきましょう。

欲望とは、強迫的にもなりかねない欲求であり、それが過度になると、強欲と呼ばれます。一方、人間の営みの重要な原動力でもあり、経済全体を劇的なまでに活気づけます。通常の欲望は、満たされると自然に消えます。欲望は、動物の生体上の空腹感にその起源があります。欲望が満たされると、何かが完結した感があるので、精神は開放されて内面に向かい、霊的な価値を追求することができます。欲望自体はプライドと同じで、間違っていると非難されるべきではありません。欲望は、教育や保健などの有益な活動に向けるならば、社会に役立っていると言えるでしょう。強欲が非難される第一の理由は、その動機が利己的であり、他者を搾取するものだからです。強欲は、他者を支配したいという欲求につながっているので、執着を表します

プライドにも健全なレベルの自負心が存在しているように、欲望もまたそれ自体がまったくもってネガティブだというわけではありません。ここで指摘されているように欲望の起源は「空腹感」にあるのですが、簡単に言ってしまえば欲望の根底にあるのは「必要を満たそうという本能」です。食欲、性欲、睡眠欲といったものはまさに本能に根付いていますし、安全で清潔なところで暮らしたいという欲も必要を満たしたいというものです。

ですから欲望と一口にいっても、そのすべてが意識レベル125で計測されるネガティブなアトラクターであるというわけではありません。しかし、いっぽうでどんな欲望にも必要の限度を超えて満たすことそのものが目的と化す可能性が秘められています。そのようになった欲望はやがて、満たし続けていないと強い不安や不満を生み出すようになっていきます。強迫的というのはこういうことで、そうなるともはやそれは強欲です。すなわち、意識レベル125の欲望とは強欲のことと考えればよいでしょう。

強欲が非難される第一の理由は、その動機が利己的であり、他者を搾取するものだからです。強欲は、他者を支配したいという欲求につながっているので、執着を表します

強欲は他者を搾取と支配の対象とみなす利己的な動機です。そしてこの利己的な動機を正当化するためにプライドを身につける人も少なくありません。わたしの見てきた限りでは、無欲だけどプライドは高いという人はいません。一見すると無欲なようでも、それは欲望の対象が即物的な分かりやすいものではないだけで、プライドは欲望の上に成り立っているように思えます。一方で、強欲ではあるもののプライドは高くないという人はいますね。一概には言えないと思いますが、ものすごく単純な例をあげるなら「人気のレストランで映える写真を撮ってSNSにアップしたい」タイプの人は前者、「そんなことより美味しいものをただひたすら食べたい」タイプの人が後者でしょうか。


■欲望の燃料と、本当の喜びの源について

さて次の引用文です。

欲望は、足りない(不足)という幻想と、幸せは自分の外にあるという幻想が燃料になっているので、わたしたちはそれを追い求め、獲得しなければならないと思います。欲望の対象となるものは、それが象徴するものやその神秘性によって誇張され、過大評価されてしまいます。「自己」の喜びの感覚は、欲望によって遮断されます。欲望が満たされると、自我は外側の対象を獲得した結果として喜びを感じますが、それこそが巧妙な幻想です。というのも、その喜びの源は「自己」にほかならず、欲望が満たされたことによって一時的に障害が取り除かれたことを意味するからです。わたしたちが体験する幸福感は、「自己」から放たれるものであり、自我の苦悩によって遮断されていないときに、輝き出します

この箇所は細かく分けて見ていきましょう。

欲望は、足りない(不足)という幻想と、幸せは自分の外にあるという幻想が燃料になっている

足りないという幻想とありますが、その起源は空腹感にあります。たしかに食べないと肉体は死んでしまいますが、魂は生まれも死にもしないという真実の観点からみると、それは幻想なのです。この空腹感に由来するその他の不足感が幻想であることは、よく調べてみれば簡単に分かることです。このことについては今回は深入りしません。

より重要なのは後半の「幸せは自分の外にある」という幻想のほうです。これが幻想だということですから、「幸せは自分の内にある」ということが真実であるわけです。

救世主や霊能力者が自分を救ってくれるだとか、パワーストーンを身につければ悪いエネルギーから護られて運勢もよくなるとか、あるいはお金がすべてを解決してくれるといった観念はすべて、幸せにしてくれる力の源泉が自分の外側に存在しているという錯覚であり、幻想です。これについては、この記事をお読みの方々であればなにを今更という話であるかもしれませんね。


◯自分の内側と外側についての正しい認識

しかしこの話、けっこう危ういんですよね。

ここで質問です。「どこからが自分の外側で、自分の内側とはどこのことなのか?」明確に理解していますか?

ここが分かっていないと、自分の内側だと思っていたものが実は外側であったということになってしまうわけです。こういう誤解をしてしまうのは世界の実相をただしく知覚できないがゆえのことなのですが、しかしその誤解が知覚をただしいものへと変容させることを阻む障害にもなっています。

正解はというと、外側とは「この世界のすべて」です。そしてポイントは「この世界」にはあなたの肉体と心も含まれるということです。ですから内側とは、この物質世界ではないところ、つまり高次の世界にあるのです。

ラメッシ・バルセカールなどのアドヴァイタ・ヴェーダーンタの師たちが使っている「肉体精神機構」という用語は文字通り人間の肉体と精神のすべてを指した言葉ですが、なぜわざわざ肉体精神機構というような言葉を使う必要があるのかというと、肉体精神機構は「自分ではない」ということを説明するためなんですよね。

あなたという人がいます。肉体は「あなたの肉体」であって「あなた」ではありませんね。同様に、心も「あなたの心」であって「あなたそのもの」ではないはずです。「あなたの心」と言ったとき、あなたは自分の心を対象化しています。この対象化を行っている主体こそが「あなたそのもの」です。目は目それ自身を見ることができないように、主体である「あなたそのもの」は自らを見ることはできません。逆に言うと、あなたが見ているものはすべてあなたにとって対象物、すなわち「あなたの外側」なのです

したがって、あなたに属するどのような知識や能力、スキルもすべて外側のものです。もっといえばあなたが自分自身だと思いこんでいるその自我も外側のものです。自我が外側のものなのですから、当然のことながら、あなたの思考や感情も外側のものです。ここがしっかり分からないと、おなじく分かっていない自称マスターや霊能力者にコロッと騙されてしまいますよ😆

さて、そうすると内側とはまさに見ている「あなたそのもの」のこととなるわけですが、「あなたそのもの」とはこのあとで述べる「真我」のことであり、神の意識のことです。この真我や神の意識があなたの肉体精神機構と接している最も末端の部分があなたのハイアーマインドであり、ハイアーマインドよりも高次の部分にはハイヤーセルフが位置しています。ハイヤーセルフは無限のグラデーションで神へと連なっています。「あなたの内側」とはこのハイアーマインドからハイヤーセルフを通じて神へと続く領域のことに他なりません。ですから本当の幸せの源泉である内なるパワーを発揮するにはその領域とのチャネルを開き、強化するしかないのです。具体的には意識レベル540以上を目指すことです。

さて続く文章を見てみましょう。

「自己」の喜びの感覚は、欲望によって遮断されます。欲望が満たされると、自我は外側の対象を獲得した結果として喜びを感じますが、それこそが巧妙な幻想です。というのも、その喜びの源は「自己」にほかならず、欲望が満たされたことによって一時的に障害が取り除かれたことを意味するからです。

ここも非常に重要な記述です。「自己」とはいわゆる大文字の "I" のことで、非個人的な唯一無二の主観性、すなわち真我(神我)のことです。さきほどの文脈でいえば「あなたそのもの」のことです。

わたしたちが「自分」だと思いこんでいる自我は幻想の行為者であり、本当に行為(意志、思考、行動)をしているのは真我なのですが、真我とはつまるところ神であり、神の意識のことです。

神の意識は愛そのものであり、その本質は喜び(至福)にあります。ラメッシ・バルセカールは「存在するすべては意識であり、意識は存在するすべてである」と言いましたが、存在するすべてとは神のことですから、神=意識となりますね。これについては何度も書いています。

そして神は喜び(至福)であると先に書きましたが、ここで

意識=存在(するすべて)=喜び(至福)

という等式が示されます。これがヨーガでいうところの「サット・チット・アーナンダ」の意味するところです。サットとは存在、チットは意識のことであり、アーナンダは歓喜です。つまり、サットもチットもアーナンダも同じ一つのものであり、ヨーガではこの一つのもののことを真我(アートマン)と呼んでいます。

真我は喜びそのものですから、真我と一つになっている賢者は常に至福の状態にあります。もっとも、それを強烈な多幸感として経験するのは覚醒に伴うプロセスの一時期だけ(※)なのですが、そもそも至福が強烈な経験として経験されるのは、覚醒に至る前の人間は多かれ少なかれ「苦」を抱えているからです。苦とは肉体的な苦痛と精神的な苦しみ、痛みの両方のことですが、要するに、この苦というものの正体は「真我から来る喜びを遮断している状態」なのです。

結論からいうと、至福とともに覚醒して一定の期間がすぎると苦はほとんど消滅してしまうため、苦が消えて快感(至福)が起こるというプロセスはいずれ生じなくなるわけです。


◯苦と喜びについてさらに

人間が快感喜び(多幸感やハイという状態もそれに含まれます)を感じるのは苦痛が除去されたときです。これは単純に、空腹が満たされたときにあらわれる満足感を考えれば分かりますが、このメカニズムをより詳しく理解するのに一番いいのは「ドラッグがハイと依存をもたらす仕組み」を知ることです。これについては下記の2つの記事に詳しく書いていますので、ぜひお読みください。

ちゃんと読まれましたか? ありがとうございます🙂 それでは続きを見ましょう。

「自己」の喜びの感覚は、欲望によって遮断されます

さきほど真我からくる喜びを遮断しているもののことを苦と呼びましたが、そうすると欲望もまた苦であると言えます。仏陀によれば苦とは「思い通りにならぬもの」だということですが、思い通りにならないからこそそれに振り回され執着してしまうわけで、それが苦しいということです。この思い通りにならぬもののことを煩悩とも呼びますが、欲望はまさに煩悩の代表格といえるでしょう。

続く二つの引用文は、いま紹介した過去記事を読んでもらっていればすんなり理解できるはずです。

中毒の場合、欲望は非常に強力で、執着や渇望につながります。ドラッグやアルコールは、とても低い測定値が出ますが、高次の「自己」の感覚を経験するために、低い自我を誘発します。つまり、ドラッグやアルコール自体は"ハイ"な状態を作ることができません。それは「自己」の輝きなのです。しかし、自我はドラッグと快楽を結びつけます

喜びは540以上に測定されますが、ドラッグは80以下です。どうして75しかない薬物が500以上の経験を作り出すことができるのでしょうか。答えは明白です。そんなことはあり得ません。これはたとえば、ドラッグがただ太陽を覆う雲を取り除いたので、太陽が輝き出したというのと同じことです。しかし、騙されやすい自我はそのエクスタシー、喜び、幸福感をドラッグによるものだと思い込みます。中毒者は、実は「自己」が醸し出す喜びの経験に中毒になっているのです。そして、その喜びを得る唯一の方法だと信じていることを繰り返します。たった一度の経験でも、決して忘れることができません。渇望は、その喜びの"高揚感(ハイな状態)"に対して起こるのであって、ドラッグそのものに対してではありません。

ここでのポイントは、それ自体が外側のものである「自我」は外側のものであるドラッグを喜びの源泉であると誤って思い込んでいるため、自我はたやすく中毒に陥るということです。

喜びは540以上で測定されるとありますが、深刻な依存症を克服するためには本人の意識レベルが540以上に飛躍するか、540以上の人物と一緒に居続けるかのどちらかしかないと博士は教えています。なぜ540なのかというと、このレベルこそが「喜び」のレベルだからなんですね。これは要するに、ドラッグや酒で経験できるハイと呼ばれる意識状態を意識レベル540以上の人はシラフで常に経験しているということです。ですからそのような人にはドラッグも酒も必要ありません。

ちなみに、他ならぬわたし自身がかつて深刻な薬物中毒者(おまけにギャンブル依存症でもありました)であったので、これらの記述が正しいことは100%保証できます。深刻な依存症からのサバイバーでなくても、意識レベル540以上に到達している人は酒や煙草といった合法的に入手可能な嗜好品にも手を伸ばさないでしょう。さきほども書きましたが、必要がないからですね。まあわたしはチョコレートやコーヒーは嗜みますけどね。

ちなみにラメッシ・バルセカールの師であったニサルガダッタ・マハラジは実家の生業が煙草屋であり、彼は悟りを経験したあともヘビースモーカーであり続けました。このことは上記の話と矛盾しているように思えますが、実際のところはマハラジ本人にしか分からないことです。ただ、彼のもとに集まる探求者たちがマハラジが愛煙家であることを都合よく受け取って真似して煙草を吸い始めたところ、マハラジは非常に怒ったそうです。意識レベルの観点からいえば、意識レベル700以上の境地に至ったマハラジにとって煙草はもはや中毒の対象ではなく、単に肉体精神機構の習慣がそのまま残っただけなのだろうと思えますが、弟子である探求者たちには理解できなかったのでしょう。


■いまここで幸せを感じる

さて、次の引用文です。

通常の人生では、欲望や達成は一時的な開放感をもたらしてくれますが、またすぐ別のものに欲望の対象が移り、それが欲しくなります。成功とお金は、わたしたちが最も抱きがちな幻想のゴールであり、それに取りつかれてしまうことも少なくありません。

そこで、あなたが今の状態に幸せを感じられなければ、状況が変化して欲しい物が手に入ったとしても、まだ幸せを感じられない可能性があることを知っておいたほうがよいでしょう。今を幸せに感じられなければ、未来においても同じです。というのも、どこに幸せの源があるのか、発見できていないからです。

多くの人、すなわち通常の人生を送っている人は、外側の世界でなにかを成したりなにかを手に入れたりということで幸せになれると思っています。しかしそれは幻想にすぎず、一時的な幸せを感じることはできても、すぐにその幸せに飽きたらなくなるものです。

そうならないためには、今のその状態に幸せを感じられるようになるしかありません。そして、いまここで、もうすでに幸せであるには、自らの内側にこそ幸せの源泉があることを発見してくてはいけません。

スピリチュアル界隈においてよく言及される概念に「いまここ」というものがあります。「いまここ」とは文字通りで、過去でも未来でもない「いま」、どこか他の場所ではない「ここ」のことです。少々誤解されがちですが、「いま」とは現在のことではありません。「いま」とは時間の流れには属さない永遠のことであり、真我が見つめる視線のことです。同様に「ここ」とは肉体精神機構が存在しているその場所のことではありません。「ここ」とは真我のいる場所のことであり、それは自我としてのわたしたちから見た「内側」のことです。

なにが言いたいかというと、つまり今を幸せに感じるには、「いまここ」に在る必要があるということです。言いかえると真我とひとつになる以外に今を幸せに感じる方法はないということです。

「いまここ」についてさらに詳しく考えて見たい方はこちらの記事をお読みください。


■禁欲主義の狙いは「足るを知る」こと

禁欲主義の価値は、生きるために必要最小限のもので満たされ幸せを感じることができる力を発見することにあります。幸せになるためには、実際に何ひとつ必要としないことに気づくことは、大いなる喜びをもたらします。テレビや音楽などの小さな外的な刺激さえも必要ないのです。会話や人の存在、活動も然りです。さらに進んだレベルでは、ちょっとした考え事などの気晴らしさえもいらず、存在そのものの気づきだけで充分であることを学びます。「自己」が「十全性」として輝き出し、あらゆる欠乏と他の何かを消滅させる、より大きな幸せを発見するのです。すると、欲するものは何ひとつなくなり、欲望の源が消滅します。なぜなら「無限の<わたし>」としての全体性は、それだけで完結しているからです。

わたしはミニマリストではありませんが、行き過ぎなければミニマリズムはとてもよいものだと思います。行き過ぎたミニマリズムとは、ミニマリストであることにプライドを持ってしまうことから発生するあれこれです。

ともあれ、ミニマリズムを多少なりとも生活に採り入れることは、現代における禁欲主義の手軽な実践といえるでしょう。まずは断捨離から取り掛かるのもよいかもしれません。わたしのおすすめは、情報の断捨離です。欲望というものは総じてなんらかの情報によって刺激されるものです。SNSを一日見ているだけで、自己顕示欲、物欲、性欲、支配欲(マウント欲)、消費欲、そしてなにより他人の様子が知りたいという欲望などなど、ありとあらゆる欲望が刺激されています。なかでも X や Facebook 、Instagram のようなものは極論すればこうした欲望を刺激することが目的で作られているとわたしは思っています。やめたほうがいいですよ😆

ちなみに、ここの記述に照らしていえば、わたしはまだまだ小さな外的刺激や気晴らしを必要としていますが、さほど多くは要りません。そして、そうした刺激や気晴らしがあろうとなかろうと、わたしは常に幸せです。世界に貢献するつもりでこうした記事を書いていますが、その活動を通じて喜びを感じているわけではありません。その逆で、無条件に喜びを感じているから、それに対する感謝の表現としてこうした活動をしているのです。


■プライドと欲望の対象への執着を感謝に置き換える

次が最後の引用文になります。

通常の人生では、成功を求め、地位獲得の野望を持つことは当然のことであり、これはラジャスの性質を表しています。停滞していることへの抵抗のかなたには、意識の進化の兆しがあります。霊的な求道者は、成功するための活動や地位は障害であり、背後にプライドと執着があると指摘します。わたしたちは、すべての行動を神に明け渡し、捧げることで、こうした側面を超越することができます。卓越性の喜びとは、内的に報われるものであり、真の成功はプライドではなく、感謝によってもたらされるのです。

博士がいうところの「通常の人生」とは、人口の95%以上を占める意識レベル500未満の領域での人生のことです。そのうち、200から499の領域はラジャスの性質を持っていますが、この性質を下支えしているのがプライドと執着(強欲)です。

ラジャスの性質からプライドと強欲を除去することに成功すれば、サットヴァへと飛躍することができます。そのためにはまず、自分は行為者であるという自惚れ(つまりプライド)と、満たされることのない動機(つまり欲望)を神に明け渡さなくてはなりません。これらを放棄できれば、いずれその他のすべてを明け渡すことができるはずです。

卓越性の喜びとは、内的に報われるものであり、真の成功はプライドではなく、感謝によってもたらされるのです。

他者の賞賛や羨望を得ることでしか感じられない成功は本物ではありません。そのような成功は、プライドが生み出した虚栄心による幻想です。本当の成功とは、内側から湧き上がる喜びによってしかもたらされません。そして、この内側から湧き上がる喜びは、ありとあらゆるものへの感謝、ただ在ることへの感謝として自我に浸透していきます。

順番としては、意識レベルが500以上に飛躍することによって内的な喜びを感じられるようになり、それがありとあらゆるものへの感謝の念を表現させるのですが、それを逆手に取るのであれば、とにかくなんにでも誰にでも感謝する、感謝してみるというのは非常に強力なワークの実践といえるでしょう。


■まとめ

最後になりますが、ほとんどの人にとって、そのカルマの中身の大半は欲望と向き合うことです。薬物依存者が基本的に依存から脱することができないのは、意識レベルを上昇させることなしに、ただ薬物の使用を我慢しようとしているからです。欲望をただ抑え込もうとしても、それは意味がないばかりか、かえって事態を悪化させることにもなりかねません。

したがって、よりベターなのは欲望を適度に満足させながらも、自分の人生には欲望による駆動力がまだ必要なのだろうか(※)? ということを問い続けるとともに、自らの欲望につねに気づいていられるようになることです。もっとも、違法薬物への渇望は残念ながら満たされるべきではありませんけどね。それは極端な例として、ほとんどの欲望は自覚のもと、ほどほどに満たしてあげるべきではあります。

要するに、自分の行動の動機が欲望とそれを満たすことになっていないか? と観察してみるということです。大半の行動が欲望を動機としているのであれば、その人は意識レベル125で測定される可能性が高いです。そうでなければおそらくもっと高いレベルにあるはずですが、欲望への執着によって人生を狂わされている自覚がある場合はその限りではありません。

その人の業がよほど深ければ、この人生でその欲望の炎が燃え尽きることはないかもしれません。とはいえ、この記事を自らの関心によって読まれているような人であればそんなことはないでしょう。運命の書の未来のページに欲望と手を切ることが書かれているからこそ、いまこうした情報を手にしているという可能性はけっして低くはないとわたしは思います。

さて、これで今回の記事は以上になります。いままでの記事と違って、断片的な情報ではなく、ひとつのテーマを扱う章単位での引用をもとにしているため、非常に長い記事となっています。また、そのなかで取り扱う関連したテーマについて過去の記事をあわせて紹介してもいるため、すべてを読んでいただいたとしたら、相当な時間と労力を掛けていただいたものと思います。ありがとうございました。


【おまけ】

今回のおまけは書籍の紹介です。

読んでみれば分かりますが、見開き2ページで完結する短い項目で全編が構成されていて、一つ一つの項目には物理学の重要なテーマが散りばめられています。最初は物理学の基本的な考え方の紹介からはじまり、古典的なニュートン物理学を経て、電磁気学や量子物理学へと内容が進んでいくのですが、一つの項目が次の項目への土台になっていて、非常に分かりやすいです。

難しい話を難しく説明するのは並の人の仕事です。難しい話を難しいと感じさせずに理解させるのは本当に頭の良い人の仕事ですが、この本は間違いなく後者の人が書いている本ですね。こういう本を読むことには、書かれているテーマについて理解する以上のメリットがあるんです。それは、頭の良い人の思考様式をなぞることによって、読み手も賢くなれるというものです。

今回この本を取り上げたのは、意識と霊性について理解するためには量子論を含めた物理学における科学的な知見をある程度知っておくべきだというわたしの考えからですが、それだけでなく、上記のようなメリットがこの本にはあるからです。Kindle Unlimited の対象になっているので、サブスクしている方は無料で読めますよ。おすすめです。

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