親切さの秘密
さっき なんばCITYのスパイスキングダムでカレーを食べたあと、なんばパークスの5Fにある P2(ピーツー)というペットと室内植物を売っているお店にて、すこし前に紹介した in Deep さんの記事でも取り上げられていた "ドラセナ" を買って帰りました😊
いままでずっとデスクの向こうの窓は遮光カーテンで閉じていた(光が入ってくるとPCモニターが見づらいため)んですが、すこしだけオープンにしてなんとか光が入ってくる場所に置いてあげることができました。後ろの段ボールは冬場の結露防止のために窓ガラスに重ねていたものです。あと、ミニPCの上部に貼っている謎のシールは放熱効果のある謎のシールです。
本当はうめきたに出来た gardens umekita by kohnan で買おうと思っていたんですが、ここのところ(というか相変わらず)体調があまりよくなく、遠出して慣れない場所に行くのはしんどそうなので今回はやめておきました。でもそのうち行ってみたいですね。
P2というお店には月に一度はインコを見るために足を運んでいるんですが、いままでなにも買ったことがなかったんで、こちらで買えてよかったのかもしれません。お店のスタッフの女の人がとても親切に世話の仕方を教えてくださったので、とても気持ちのいい買い物になりました。ちなみに写真に写っているとおり水耕栽培用のガラス鉢と中の土? のようなものにドラセナが植わった状態で梱包してもらって、このまま持って帰ってきました。液体肥料を別途購入して、合計で5000円弱でした。大事に育てたいと思います😊
先日の記事の振り返り
さて、先日の
という記事にて、意識レベルの低い領域にいる人々との接し方、関わり方について、中間層(201~539)の人と高い領域の人(540以上)の人とでは、どのように違うのか? ということについてお話しました。質問者さんの意図としては、高い領域の人物の振る舞いを知り、そのようにすることで自身の意識レベルを高められるのではないか? そうであるなら、それを知りたいというものであったと推察しています。
回答では、高い領域の人物の振る舞いは基本的に "慈悲・慈愛" を動機としていることを明らかにしつつ、同時にこの領域の人々はフォースの影響に曝露されても意識レベルが低下しないことを指摘しましたが、それゆえ彼らはフラットな感情で低い領域の人々と安全に関わることが可能なわけです。
一方で、中間層の人々はフォースに対する耐性がないため、低い領域の人々のネガティブなフォースを通して低いアトラクターの影響を受けてしまいます。もちろん、その影響の度合いはおなじ中間層でも高いレベルになるほど軽微にはなりますが、程度の問題でしかありません。意識レベル500の人であっても、低い領域の人々とずっと一緒に暮らしたり職場をともにしていると、自身も200以下の領域へと転落してしまわない保証はありません。
こういう理由から、低い領域の人々との関わりにおいて中間層の人が高い領域の人物の真似をすることは避けたほうがよいです、というのが先日の記事の結論でした。可能な限り彼らと距離を置くことが望ましく、彼ら同士の問題については立場上そうする責任がないのなら介入せず静観しましょうと述べました。
今回はこの話の補足として、もうすこし踏み込んでみたいと思います。
意識レベルを高めることの意味
わたしの記事ではホーキンズ博士の意識のスケールの概念を前提に話をしています。この概念においては、たとえば霊的な教えの伝統において "覚醒" と呼ばれているものは、意識レベルでは600というように明確な数値によって示されています。また、覚醒には至らない領域においても意識には様々なレベルがあり、それぞれのレベルに応じた真実があることも明かされました。
これによって、「悟った人」と「悟っていない "ただの人" 」というような二元的な誤解が解かれただけでなく、どんな人でも現在の自分がどのレベルにあり、そしてこれからどのように進歩していくことができるのか? を知ることが可能になりました。分かりやすくいえば博士の業績によって、覚醒や悟りを目指すしかなかった霊的探求の世界が「意識レベルを高める」という明確な目標をもった学びのプロセスへと変わったのです。覚醒や悟りはその学びのプロセスの延長上にあるものですが、必ずしもそれらが成長のゴールである必要はありませんし、なんとなれば悟りのその先にも意識のより高い領域が存在していることも博士は教えてくれています。
ここでちょっと、そもそもの話をしたいと思います。それは、"なんのために意識レベルを高めるのか?" ということです。これは従来であれば、"なぜ悟りたいのか?" というのと同じ話になるでしょう。すなわち、探求者がなぜ探求をしているのか? ということですね。これをお読みの方の多くが探求者であることを知ったうえであえてこう書いているのですが、みなさんにおかれてはいかがでしょうか?
従来式の話であれば、探求者が悟りを求めるのは、悟ることによって "苦しみから開放される" と思っているから――ということになるでしょう。しかし、悟りとは「偽り(幻想)の行為者たる自我が消え去る」事象です。つまり、探求者(の自我)は自らが悟る、あるいは悟りに到達する、というつもりでいるわけですが、行為の主体ではない自我には悟ることも悟りなる状態に到達することもできません。
しかし、行為者ではないのに行為者であると思い込み、それがゆえに自分の身に起きた行為には責任(罪)があると信じ、また同様に行為者ではない他者にも責任があると信じるからこそ、自我は苦しむのです。覚醒や悟りにおいては、この幻想性が見破られ、自我は行為者の座を追い払われ、自己中心性を失います。結果としてその肉体精神機構は苦しみから "開放" されるのです。
意識のスケールの概念では、この "開放" が覚醒の瞬間に初めて訪れるわけではなく、意識レベルを高めることによって段階的にそこに向かっていくものであることが示されているわけですが、具体的にいうと "開放" がはじまるのが意識レベル540です。このレベルは「喜び」の領域と説明されていますが、それは "本物の幸せ" を感じられるレベルであるという意味です。
幸せとはなにかを端的にいうなら、それは「苦しみのない状態」です。意識レベルの数値は、高いほど苦しみが少なく、低いほど苦しみが多いことを示しています。
ここまでをまとめてみましょう。
なぜ意識レベルを高めるのか? それは、すこしでも苦しみを減らすためです。同時にそれは、すこしでも幸せを感じられるようになるためでもあります。覚醒や悟りはそれぞれ、ほぼほぼ苦のない状態、完全に苦のない状態です。そして探求者が探しているのは実は探求者自身、つまり探求者の自我こそが苦しみそのものであるという真実です。苦しみの原因が自我にある、という表現も間違ってはいませんが、正しくは自我が苦しみの原因というより、自我が苦しみであり、苦しみとは自我のことなのです。
覚者や賢者が探求者の問いに迷いなく答えられるのは、探求者の問いが自我のレベルから出ているもの(つまり幻想)か、そうでないかが自我を超越した彼らにとっては容易に識別できるからです。
ちょっと話がそれましたが、このように意識レベルを高めることの意義は幸せになることですが、それだけでしょうか? いいえ、もちろんそんなことはありません。幸せになるだけでなく、幸せにすることもできるんです。
意識レベルの数値は霊的なパワーの大きさを示しています。0~199 までの領域ではそのパワーはとても弱く、自分ひとりを元気づけるのにも足りていません。それゆえ、この領域の人々は他者からエネルギーを奪い取ることで元気になろうとする傾向があるわけですが、いわゆるエネルギーヴァンパイアと呼ばれるのがこの領域の人々です。
一転して、200以上になるとエネルギーを世界に分け与えることができるようになります。これは言い換えると、世界によい影響を与えることができるということです。意識レベルの数値は対数で表現されていて、1ポイント上がるとエネルギーは10倍になります。10ポイント上がると100億倍と考えると、意識レベルを高めることがどれだけ素晴らしいことであるかがご理解いただけることでしょう。
ですから原理的にいえば、中間層(200~539)の人々のエネルギーも低い領域の人々にポジティブな影響を与えていることは間違いありません。単純に意識レベル500の人物と150の人物という二人だけで考えるなら、150の人物の意識レベルが浮上するのではないかと思えますよね。もちろん、実際そうなることもあるはずです。しかしながら、意識レベルの問題というのはこのように単純にそれぞれの人間(肉体精神機構)だけで決まっているわけではないのです。
ここでは詳しくは述べませんが、意識レベルを決定しているのは人類全体の意識のフィールドに存在しているアトラクターの影響力です。意識レベル500の人物は愛のアトラクターからもっとも強い影響を受けており、150の人物がもっとも影響されているのは怒りのアトラクターです。そしてもちろん、愛のアトラクターは怒りのアトラクターよりも、一人の人間に与える霊的なパワーは遥かに強大です。
しかしながら影響力という観点でみたとき、愛のアトラクターに強く影響されている人よりも、怒りのアトラクターに影響されている人のほうが数の点では遥かに優っています。現代においても人類の半分以上(おそらく7割弱くらい)がいまだに意識レベル200未満の領域にいるのですが、それを踏まえると目の前にいるたった一人の意識レベル150の人物の背後に何十億の人間をその影響下に置いているアトラクターの存在を透かし見ることができるはずです。これが、フォースから距離を置くべきであるとわたしが述べていることの理由の詳細です。ご理解いただけたでしょうか?
すなわち、意識レベル540はこのようなフォースの影響力との均衡を破る臨界点であるといえます。わたしはそこかしこにおいて「意識レベル540」を超えることの重要さについて書いていますが、つまるところ、苦しみとはフォースのことであり、フォースの重力から脱出できることが開放であり、幸せであるということです。
親切さはフォースに触れない
さて、ここまで長々と書いてきましたが、今回お伝えしたかったのは "親切に優る態度はない" ということです。
わたしはこれまで一貫して、「意識レベルを高めるもっともよい習慣は、身近な人々に親切に接し、彼らの役に立つ人間でいること」だと書いてきています。これは本当は「身近な人々に」ではなく「誰にでも」なのですが、最初からそうはできないでしょうから、まずは身近な人々に、という意味であります。
では、これがなぜなのかというと、親切さという態度の出どころは "慈悲" だからです。いままでこのことについては明確に書いていませんでしたので、ここで明らかにしておきたいと思います。
慈悲とは、他者の苦しみを理解し、その苦しみを取り除いてあげたいという気持ち(悲)と、他者に喜びや楽しみを与えたい(慈)という思いのことですが、ここではそれを「他者の意識レベルを高めてあげたいという思い」としておきます。すべての個別的意識(魂)は進化のプロセスの中にありますが、それゆえ進化した意識が他の意識の進化を助けるということもこのプロセスの働きのひとつです。つまり、慈悲は単なる美徳ではなく、進化を促す作用として個別の肉体精神機構に発現するパワーなんですね。
他者の意識レベルを高めてあげたいという思い、すなわち慈悲は、まず他者の感情や思考、置かれている状況や境遇といったものを感じ取る能力(共感力)として現れてきます。この能力によって、他者がいまなにを感じ考え、そしてなにで困っているのか、なにを必要としているのかを理解するだけでなく、理解と同時にそれを満たしてあげようという動機が生じます。親切さとは、この動機が行動となって現れたものです。
ポイントとしては、他者の必要を満たしてあげようというという思いに見返りは必要ないというところです。もしなにかを期待しているのであれば、それは親切さに見せかけた別のなにかです。他者の必要を満たしてあげようと思い、十分に満たしてあげることができたなら、そのこと自体が報酬となるのが親切さです。なぜなら、親切さの出どころは慈悲心であり、慈悲心は意識レベルの高い領域にあるアトラクターだからです。高い領域にあるアトラクターを動機とする行動は、それ自体が報酬といえます。
もっとも、これを読んで「それじゃあ、これからは親切になってみるかな」と考えた人が最初から自分の行動それ自体を報酬と感じられるわけではないでしょう。ですから、最初は「親切にする」ではなく「親切にしてあげる」という感覚でよいと思います。親切な行為は基本的に感謝されるものですが、感謝されて嬉しいと感じてもなにも問題ありません。ただし、感謝されなかったからといって不満に思ってはいけません。そこは訓練だと思ってください。
それにしても、そもそも親切な人が嫌われたり疎まれたりする道理はないわけです。もちろん、人間というのは色々な側面を持っていますから、親切でさえあれば好かれる、喜ばれるというわけではありません。とはいえ、人間関係において親切さは間違いなく美点であり利点であり長所であるはずです。それなら、親切であるべきか、それとも不親切であるべきか、という問いには考える余地がないはずですよね。コミュニケーション能力だとか、諸々のスキルだとかは手に入れるのが難しくても、ただ親切であるだけでそれが好評価につながるのであれば、親切にならない理由はありませんよね。
しかし現実には、親切な人が「あの人は親切だねえ」とわざわざ言われるくらいには、世の中に親切な人は多くありません。こういうことについても意識のスケールを学んでいくと簡単に分かるようになっていくのですが、要するに親切な人ほど意識レベルが高く、大多数の人は親切になれるほど意識レベルが高くないということなんです。
また、先ほどの話と絡めてもう一ついうと、親切であることのメリットは明らかなのに多くの人が親切になれないのは、意識レベルが低いと「親切になろうと思ってもなれない」からです。というのも、親切さを表現するためには、"他者の感情や思考、置かれている状況や境遇といったものを感じ取る能力(共感力)" が必要だからです。
共感力があるということは、自分と他者を隔てる境界が無いか、あってもそれは薄い、あるいは弱いということです。他者に共感できないのは、自己中心性が強すぎて、自他が分離してしまっているからです。ここでいう共感とは、「あなたのその考えに同意します!」といったニュアンスではなく、単に他者が感じていることをそのまま感じ取るということです。ですから、ここでいう共感力はちょっとしたテレパシーのようなものになりますが、意識レベルが高まっていくと実際にそうなっていきます。
相手がなにを必要としているのか? どんなことで困っているのか? いまなにをしてあげたら喜ぶだろうか? ということが分からなければ親切にしようがありません。ですから、意識レベルの低い領域にいる人々にとっては親切であることはとても難しいことと言えます。
また、この領域の人々は一言でいえばみんな自己中です。ですから、言うまでもありませんが、「親切にしてなんの得があるの?」とも思っています。それどころか、親切な人を馬鹿だと思っていたり、利用価値のある人間だとみなしていることもあります。
意識レベルが高まっていくと共感力は自然に養われていきますが、親切であろうと常に考えて生きていれば、それは加速的に身につくでしょう。また、親切であることを意識していれば、他人から受けた親切にもよく気がつくようになれます。いままで当たり前に受け取っていた他人の行為が、実はとてもありがたいものであったと理解する機会がきっと増えていくでしょう。他者の親切に感謝できるとき、その感謝はあなたの意識レベルを高めることでしょう。そして、この世界のすべては一つですから、他者に対して行うことは自分に行うことと同じです。したがって、親切にしていれば親切にされるようにもなります。
さて、ここで前回の記事の話題に戻って考えてみましょう。
このように親切であることには決して軽く考えてはいけないくらいのパワーがあることをみてきましたが、ここで多くの方はこう思うはずです。
「では、低い領域の人々に対しても親切にしていればいいのかな?」
はい、そのとおりです。今回お伝えしたかったのは、まさにそれです。上の方で書きましたが、親切さの出どころはたしかに慈悲です。ですが、慈悲そのものはもっと高い次元のものであり、慈悲から起こる行為や態度は親切さだけではありません。そういったものをすべて表現できるのは、最低でも意識レベル540を超えるようになってからですし、それを無理にやろうとしてはフォースの餌食になってしまうリスクが高いというわけです。
一方、親切であることはただの態度です。もちろん、その態度がなにがしかの具体的な行動を生み出すわけですが、その行動は決して重々しいものではありません。親切さから生まれる言動は、相手のフォースに触れることがありません。なので、低い領域にいる人物との関わりにおいては基本的に距離を起きつつも、関わらざるを得ない局面では親切に振る舞うとよいでしょう。
なお、親切さが共感力から生まれるといいましたが、この共感力は彼らの放っているフォースをも感じ取ってしまうでしょう。しかし、間違っても彼らのプライドや欲望や怒りといったものを満たしてあげようと思ってはいけません。そういうものは避けなければいけませんが、しかしうまく避けるためにも共感力によってそれを見抜く必要があるのです。見抜いたうえで、そうしたフォースは無視しつつ、その場面におけるポジティブなニーズに気づいて満たしてあげるとよいでしょう。
たとえば同じ職場で営業に出かけようとしている意識レベル150(怒り)の人物に対して「今日はなんだか気分が悪そうだね。なにかあったのかい? 話なら聞くよ」というのは親切ではなく、単に彼のフォースに同調しているだけです。ではどうするのがよいかというと、「いまから営業? ああ、そういえばあの商品のカタログが新しいのに変わってたって知ってた? 手持ちがいくつかあるから、よかったら持って行く?」というような感じです。
このような接し方であれば、どんどんやって構いません。相手のフォースに触らなければその悪影響を受けるリスクも小さいでしょう。うまくいけば、その相手にもよい影響を与えられるかもしれません。そうでなかったとしても、あなたが恨まれることはないでしょう。
もしも「これは親切だろうか?」と迷うなら、それが相手のフォースを満たす行動でないかチェックしてみてください。これはやってみれば簡単です。ちなみに、親切のつもりで相手のフォース(つまりプライドとか欲望とか)を満たそうとしてしまっている場合、そのフォースはそもそもあなたの意識に強い影響力を持っている可能性があります。これがよく言われる "投影" というものの正体です。
まとめ
親切さには、自分の意識レベルを高めるだけでなく、他者の意識にもよい影響を与える作用があります。また、低い領域にいる人々との関わりにおいて、彼らのフォースから身を守りつつ良好に接するには、常に親切にすることが最良です。
低い領域にいる人々にとっては難しいことですが、中間層にいる人にとって親切であること、親切にすることは容易です。親切であろうと決めるだけでその人は親切になっていくでしょう。そこに努力は必要ありません。
意識レベルを高めることを主眼においたとき、親切であるというただそれだけのことが瞑想やヨガといったものよりも遥かに意義深く、効果的であることをお分かりいただけたなら幸いに思います。
あ、といって瞑想やヨガも、やりたい人はやればよいですよ。ただ、前にも書きましたが瞑想やヨガといったものは自転車に乗るための補助輪でしかありません。自転車に乗れるようになったら補助輪は必要ないので外さなくてはいけませんよね? つまり、いつまでも瞑想やヨガから離れられず、あろうことかそれらの "先生" になってしまう人というのは、そうですね、補助輪をつけて自転車に乗るのがめっちゃ上手な人ということです。そういう人たちが補助輪なしで自転車に乗れるのかどうか、わたしには分かりません。その人が親切なら乗れるのかもしれないし、不親切なら乗れないかもしれません。
いっぽう、親切であろうとすることは、最初から補助輪なしで自転車を漕いでみるということです。これは難しそうにみえて、実は簡単です(※中間層の人にとっては)。わたしの観点では、むしろ補助輪をつけて乗るほうが難しそうに思います。
もちろん、最初から上手く乗ることはできないでしょう。しかし、乗り続けていれば誰でも上手になってしまいます。親切にするということを続けていけば、本当に色々なことが分かってきます。それとともに、エゴの自己中心性はだんだん消えていくでしょう。最初のうち、親切にすることは利他的なことだと感じるかもしれませんが、いずれそのような感覚もなくなって、気がつくと自然に親切な行為があなたの肉体精神機構に起こるようになっていくでしょう。あらゆる聖典がなにゆえに書かれたのか? あらゆる聖者たちがなにゆえ教えを説いたのか? そしてなぜあなたがそのようにして残された言葉を読んだり聞いたりしているのか? そうしたすべての謎が、親切さを通してあなたに解き明かされていくでしょう。
それでは、今回はこれでおしまいです。読んでくださってありがとうございました。この記事が役に立ちましたら幸いに思います。それでは、また次の記事でお会いしましょう🙂