目をあわせるということ
「意識」がスケールの下へと遠ざかるにつれて、人間はアイコンタクトを維持できなくなることは、注目すべき面白いことです。一番、低いレベルでは、アイコンタクトは完全に避けられてしまいます。反対に、スケールが上へといくにつれて、長時間目の焦点を合わすことが可能となり、最終的には、ほぼ永続的に非常に深く凝視できることが特徴づけられます。罪の意識から用心深い目をしていたり、敵意で目をギラギラさせたり、無邪気さで瞬きさえしない開いた目を、私たちはみなよく知っています。「パワー」と知覚は一緒に現れるということを覚えておいてください。
デヴィッド・R・ホーキンズ 『パワーか、フォースか 改訂版』P.309
睨みあう二人。眼をそらした方が負け――という話では、ありません。
この本の旧版が発売されたと同時に購入して読んだわたしは、長い間この箇所について半ば疑問に思っていました。つまりそれは、アイコンタクトを嫌っていたにもかかわらず、自分の意識レベルはそこそこ高いと思っていたからなのですが……。
いまではどんな人でも(職業柄、ヤクザ屋さんを揉んだりしますが、そういう人たちであっても)目をあわせることにためらいはありません。ただ、相手の人がそれを避けることもしばしばなので、不用意に目をみつめたりはしないようにしています。
実際には、相手のどこにもフォーカスを置くつもりはないのですが、そうすると自然と、瞳を凝視することになるのです。瞳はその人の、もっとも本質に近い部分です。それ以外のパーツは見かけ上のカタチにすぎません。ですから、相手を見るということはイコール瞳を見つめるということになるのです。そして、そうやって瞳を見つめているとき、わたしは非常に多くの情報を知覚しています。
「パワー」と知覚は一緒に現れるということは、意識レベルに応じて世界の知覚の仕方が違うという意味です。アイコンタクトについてのこの話は、それを端的に示すものです。
ちなみにこのことは、長い時間アイコンタクトをとるかどうかだけでなく、たとえばちょっとした挨拶の際にも確認できることです。親しみをこめた目で見つめながら「おはよう」と言ってくる人もいれば、目をあわせないどころか、ほとんど無視されることもあります。それぞれの人が、なにを知覚しているのか? それを想像してみると、理解につながると思います。
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